第25話:風のあとで、はじまりのページ

 パソコンの画面に、新規作成されたファイル名が点滅していた。


 《風のあとで_akari_ver1.docx》


 まっさらなキャンバスのような白い画面を前に、あかりは呼吸を整えた。

 指先が自然とホームポジションに落ち着く。

 そこに「何を書くか」は、すでに決まっていた。


 ――この物語を、いま綴る。


 秋葉翔吾が書こうとして、最後まで書けなかった物語。

 それをAIに封じたのか、託したのか。

 はっきりとした答えは、いまだにわからない。


 けれど、彼が残した断章と、手帳の走り書きと、五感の記憶。

 すべてがあかりの中に集まって、ひとつの“線”を描き始めていた。


 その線を、物語として繋げていくこと。

 それが、自分に託された“続きを生きる役目”なのだと思った。


 あかりは、最初の一行をタイプした。


 風が止んだあと、誰かが立っていた。


 それは、AIが生成した断章の冒頭と同じ言葉。

 けれど、同じであることに意味があった。

 彼が一度書いたその一文を、自分が引き継ぐという意志の表明だった。


 違うのは、次の一行からだ。


 その人は、こちらを見ていなかった。

 風が髪を揺らして、輪郭だけがくっきりと残った。

 何かを言おうとしていた気がする。けれど、声は届かなかった。


 指は止まらなかった。

 記憶の中にある風景――川沿いの道、春の夕暮れ、喫茶店の木のテーブル、

 彼が手帳をめくるときの仕草、誰にも見せなかった原稿。

 それらが、言葉になって、静かに画面に現れていく。


 秋葉と過ごした日々を、美化するつもりはなかった。

 でも、あの空白の時間が、確かに何かを宿していたことだけは知っている。


 AIの出力にはなかったもの。

 それは、「温度」だった。


 手のひらの温度、視線の動き、言葉にしなかった感情。

 そういうものが、言葉の隙間に宿ることを、あかりは信じていた。


 この物語には、意味や教訓はいらない。

 誰にも届かないかもしれない。

 けれど、“彼”にだけは届く気がしていた。


 いや、もう十分だったのかもしれない。

 自分が彼の言葉に触れ、こうして書き始めてしまった以上、

 もうその行為そのものが、彼への応答になっていた。


 画面の右端に、スクロールバーがほんの少しだけ現れる。


 書き出しの段落はまだ短い。

 けれど、そこに確かに息が吹き込まれていた。


 (これは、もうAIには書けない)


 AIは、過去の言葉を再構成する。

 だが、未来のために言葉を綴ることは、まだできない。

 “誰かに届いてほしい”という祈りをこめて語る行為は、きっと人間だけのものだ。


 そして今、自分が書いているこの文章もまた、

 誰かへの祈りと返答の記録だった。


 ふと、あかりは机の上のノートを手に取る。

 秋葉のプロットノート。

 ページの端には、彼が書いた一行があった。


「言葉にできないものを、言葉にしてほしいんだよ」


 あのときは、冗談のように聞こえたその言葉。

 でも今なら、それがどれほど本気だったか、わかる気がした。


 あかりはパソコンの画面に目を戻し、再びキーボードに指を添えた。


 君の物語の続きを、

 わたしの声で、綴じていく。

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