第5話:誰が書いたのか

 《風のあとで》――。

 改めてそのタイトルを目にしたとき、あかりの中に言葉にならない引っかかりが残った。


 控えめで、詩的で、物語の中に“何もない”ことを許すようなタイトル。

 それは、大学時代に彼女が何度も目にした、ある作家志望の男の持ち味だった。


(……秋葉翔吾)


 その名前が、胸の奥から浮かび上がる。

 言葉ではなく、気配のように、記憶の端から現れる。


 彼はあかりの一学年上だった。大学の文芸サークルで、誰よりも筆が速く、誰よりも言葉にこだわり、そして誰よりも“自分の作品を多く語らなかった”。


 秋葉の書く物語は、どこか“生きたまま未完成”のような空気を纏っていた。

 完璧ではない。でも、だからこそ忘れられなかった。

 あかりは密かに憧れていた――いや、それ以上に、**彼の言葉を“読むことで自分の存在を肯定していた”**のかもしれない。


 だが彼は、ある時期から突然、姿を消した。


 「社会人になって忙しくなったらしいよ」と言う後輩もいた。

 「デビュー間近だったけど、契約が流れたって話もある」と噂する者もいた。

 だが、真相は誰にもわからなかった。あかり自身も、深く踏み込むことができず、そのまま彼の名前を意図的に封印していた。


 あのころの彼の書いたタイトルの一つに、《風のあとで》という言葉がなかったか?

 いや、それは勘違いかもしれない。けれど、この“空気”は――あの作品群と同じだ。


 念のために、タイトルをネットで検索してみる。

 《風のあとで》というフレーズは、エッセイやブログ記事の一文として散見されたが、小説作品としてヒットするものはなかった。


(……じゃあ、これは“まだ出版されていない作品”なの?)


 つまり、“書かれていたけれど、読まれていなかった物語”。

 そしてそれが、AIによって形を変え、いま自分の前にある。


 AIがどのような経緯でそのデータを得たのかはまだわからない。

 だが、秋葉翔吾の名前とこの作品に、何らかの関係があるとしたら――。


 あかりはノートを手に取り、白紙のページを開いた。

 そこに小さく、ひとつの名前を書き込む。


 秋葉翔吾/行方不明・消息不明・文芸サークル/2017年投稿停止?


 まずは、彼の行方を探そう。

 なぜ消えたのか。なぜ、誰にも読まれなかったはずの物語が、AIによって語られているのか。

 そして、もしも彼がこの原稿を“遺した”のだとしたら――。


(私は、読まなきゃいけない。あの人の物語を)


 あの日、読み手であることしかできなかった自分にできる唯一の行動。

 それは、言葉の奥へもう一度、手を伸ばすことだった。

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