3月 🌸ワームムーン ― 春を喰む君に ―
3月の風は、冷たいけれど、どこか柔らかさを含んでいた。
長く続いた雪は、陽射しの力を借りて少しずつ形を失い、代わりに地面からは新しい匂いが立ち上っていた。
土の匂い、草の匂い、そして何より――“始まり”の匂い。
白井 蓮(しらい・れん)は、高校の卒業式を目前に控え、放課後の校庭に一人で立っていた。
この校舎とも、グラウンドとも、もうすぐお別れだ。
だけど、感傷は不思議と湧いてこなかった。
「これから」のことを、実感できていなかったのかもしれない。
受験は終わり、進路も決まった。やり残したことも……特に、ない。
――いや。
何かが足りない気がしていた。
春は来るのに、自分だけがまだ冬の中にいる。
そんな感覚だった。
そのときだった。
ふと、視界の端で、何かが揺れた。
校庭の隅。誰も寄りつかない古い桜の木。
その根元の土が、わずかに盛り上がっていた。
「……ん?」
不思議に思い近づくと、盛り上がった土がふるりと震え、
白く細い手が、ひょいと地面から伸びてきた。
「……え?!」
驚く間もなく、その手を使って、誰かが土の中から這い出してくる。
――それは、少女だった。
真っ白なワンピースに、くすんだ土をまといながらも、どこか透明感のある美しさを持った存在。
髪は淡い桜色に透け、肌は雪のように白い。
少女は目を細め、空を見上げてふわりと笑った。
「……春、だね」
蓮は、言葉も出せずに立ち尽くしていた。
少女は彼に気づくと、少し驚いたように目を見開き、にこりと笑った。
「こんにちは、地上のひと。……今年もまた、来られた」
「……え、あ、あの、君は……誰?」
「私は春の使い。この春で消える者」
さらりと告げた言葉に、蓮は困惑する。
彼女はふざけている様子もなく、どこか切実に、それを“真実”として話していた。
少女は「ミナモ」と名乗った。
彼女は、土の中で一年間眠っていたのだという。
春の前、最後の雪解けの頃――“目覚める者”として。
「毎年、ひとりだけ土の中から出てくる。
その年の春を告げて、芽吹きを導いて、やがてまた消える」
それは人間でもなく、精霊でもなく、ただ“春”の一部。
「ワームムーン(芋虫月)」と呼ばれる満月の頃――ミナモは目覚めた。
土を喰み、冬を越し、春を芽吹かせる存在として。
蓮は、夢でも見ているような気分だった。
でも、ミナモは確かに、そこにいた。笑い、風に髪をなびかせ、
目を細めて花の芽を撫で、土に耳を当てて囁く。
彼女は春だった。
けれど、どこか人間よりも人間らしい、儚さを持っていた。
「ねえ、君は。卒業して、どこに行くの?」
そう聞かれ、蓮は少し戸惑いながら答えた。
「大学……かな。遠くに。都会のほう」
「ふうん……そっか。
じゃあ、わたしとは、もう会えないんだね」
ミナモは言った。
「春は、一度きり。
そして私は、今年で最後の“春の使い”」
彼女は、土に還る運命にあるという。
もう二度と、芽吹きには戻れないと。
それが定めだと、微笑みながら語った。
「でもね。君に会えて、よかったよ。
ずっと、地上の春を見てみたかったの」
蓮の心が、やっと動いた。
ずっと感じていた「何かが足りない」という感覚――
それは、まだ何も愛したことがなかったからかもしれない。
誰かに出会い、惹かれ、別れを知る。
それが、春の意味だったのだ。
蓮は、桜の根元に咲いたつぼみを見つめながら言った。
「……来年も、会えないの?」
「うん。
でも、私がいたことを忘れなければ、
君の春には、きっとまた何かが芽吹くよ」
彼女はそう言って、そっと蓮の手を握った。
暖かく、土の匂いがして、命そのもののような手だった。
満月の夜。校庭に立つ一本の桜が、ついに開花した。
ミナモはその木の根元に座り、蓮に最後の言葉を残した。
「ありがとう。君の春に出会えて、嬉しかった」
そして、彼女は静かに、土の中へと還っていった。
まるで、すべてが夢だったように。
でも、桜の下に残った一輪の花は、確かに彼女の存在を証明していた。
それから数年後。
都会の喧騒のなかで、蓮は春になるたびに桜を見上げた。
あのときの手の温度と、土の匂いと、ミナモの声が蘇る。
「……お前がいた春は、確かにここにあったよ」
満月の夜。ワームムーンが昇る空の下で、
蓮は今も、春を思い出している。
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