第2話 ふざけるな

「アクセルとブレーキを踏み間違えたんだよ」


 裁判長の前で、その男はそう証言した。加害者は七十代後半の老人で、一軒家で独り年金暮らしをしている。 


 よく通うスーパーで買い物をしようと車で向かっていた最中、赤信号が見えたのでブレーキを踏もうとしたが、加速してしまった。

 

 そして、不運にも我が子が飛び出し来て、事故が起きてしまった。間違いなく加害者が悪いのだが、そう言いきれない厄介な問題が出てきた。 


 横断歩道が赤信号の時に我が子が飛び出したのだ。弁護士と検事が言い合った結果、私の方にも責任があるという事になり、加害者の賠償責任が軽減された。


 懲役は歳のこともあってか、免れてしまった。この加害者からの損害賠償は、お墓を建てるつもりで貯めた資金から支払われた。


 加害者からの謝罪もあったが、どこか人を死なせたという自覚を持っていない瞳をしていた。


 傍聴席にいた私は怒りで煮えたぎり、息子の大好きだったヒーローの人形を力強く握りしめていた。


 何がアクセルを踏み間違えただ。ふざけるな。そんな些細なミスで息子は車輪の下敷きになったんだぞ。


 醜い魔法使いみたいな老人がハンドルを握ってしまったせいで、純粋な瞳をした妖精の我が子が消えたかと思うと胸が張り裂けそうになった。


 隣にいる夫を見ていた。彼も犯罪者に息巻いていた。私と同じ気持ちを抱いてくれているのと嬉しく思う一方、もしあの時声をかけくれなかったら息子は命を失わずに済んだかもしれないという怒りもあった。


 いや、私がもっとしっかり手を握っていれば。あの時離さすに引き止めていればこんな惨劇は生まなかったかもしれない。


 痛憤つうふん、後悔、哀惜あいせきが合併し心がグチャグチャになりそうだった。


 ふと私はさっきまで高齢者が立っていた所に息子がいる事に気づいた。私は信じられなかった。なぜあんな所に息子が立っているのか分からなかった。


 私は小さくあの子の名前を呼んだ。すると、息子は嬉しそうに手を振っていた。その瞬間、私は涙が止まらなかった。あぁ、息子は帰ってきたんだ。私にバイバイするのが嫌で戻ってきたんだ。


 しかし、夫は「どうしたんだ?」と心配そうに尋ねてきた。


「ほら、見えない? あの子が……あの子が帰ってきたのよ!」


 私は再びその方を見ると、息子の姿はいなかった。その瞬間、私は夢だったのだと絶望し腰が抜けてしまった。


 その後の記憶はあまりない。おそらく事務的な処理を済ませたのだろう。ほとんど茫然自失といった状態で家に帰り、ベッドに眠ったような気がする。


 あの子の葬式もあまり覚えていない。やったようなやっていないような。喪服を来た私と夫の両親がなぐさめに来てくれたり、友人や知人も挨拶しに来た記憶があるから開いたかもしれない。


 あんなに騒がしかった我が家がお通夜みたいに静かになったのが心苦しかった。


 あの子のいない子供部屋。あの子のいないリビング。あの子のいない浴室――どこもかしこも空虚だ。子供用のシャンプーやおもちゃ、私と夫の似顔絵が貼られた壁があの子のいた痕跡を感じることができる。


 これから一生息子のいない生活が始まると思うと、後を追いかけたくてしょうがなかった。

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