第3話
名前を呼ばれた。
『ゆーめの』
少しだけ知っている声、目を開けると、よく知っている顔がある。
丁度昨日の夢に出てきた少女が、机に突っ伏している私の顔を覗き込んでくる。
――
彼女は普段私のことをそんな呼び方はしないし、それどころか私の名前を呼んだことなんて一度ぐらいしかなかったのに、今日はまるでいつも一緒にお弁当を食べる友達のように呼んでくる。
魔が差した。
調子のおかしい月宮さんと同じように、私もおかしかった。
手を伸ばす。月宮さんの頬の触れようとする。でも、触れようとした瞬間に彼女の手が私の手を握った。
握手のような握り方じゃなくて、指と指を交差させた握り方。お互いの手が余すとこなくぴったりとくっついている。
昨日の夢とは違って、月宮さんは私の手を握ってくれた。
少し、本当に少しだけ嬉しい。
孤独を感じない。ただ、それが嬉しいだけで、それ以外の余計な感情は存在しない。
「―――おはよう」
それが目覚まし代わりとなって、目が覚めた。
花のような香りが鼻を刺激して、私は前に目を向ける。
「‥‥おはよう?」
ああ、おかしい。目を開けたから夢から覚めたと思っていた。けれど、実際はついさっきまでは夢の中にいたのだと気付いた。
道理でおかしいわけだ。
彼女が私のことをそんな風に呼ぶわけない。
「‥‥って、月宮さん。なにか用?」
「ううん。今日、午前までなのに、ずっと寝てるから」
ずっと寝ていたせいか、初めて知った。今日が午前授業までの日なら、早く家に帰ればよかった。
「じゃあ、どうして月宮さんはまだここにいるの?」
「さっきまで
「そう」
素っ気ない返事をして、会話を終わらせる。正直、これ以上会話のネタはないから、できれば早く終わらせたい。
「私、帰るから」
「そっか」
とりあえずそう告げて、机の右側にかかっている鞄を取ろうとする。けれど、なぜか手が動かない。
その原因を探るため、私は自分の手に目を向ける。
「そういえば、この手どうする?」
月宮さんがそう言って、手のひらをぴったりとくっつかせて握っている私と彼女の手を見せた。
次の瞬間、私の顔が一気に高揚するのがわかった。くっついた手から素早く熱が上がってきて、顔を熱する。
「‥‥ごめん」
なんとなく謝って、手を無理やり離した。
「別に、握ったの私だから」
その言葉は、その言葉通りの意味で、私が謝る必要はなかったことを伝えている。ただ、そんなことよりも、なぜ彼女が私の手を握ったのかが気になってしまった。
たぶん、私が手を伸ばしてしまったから。
それに対して、条件反射で手を握っただけなのだと思う。
「じゃあ」
多くの部分を省略して、私はそれほど仲良くもない月宮さんに別れを告げる。
「うん。バイバイ」
月宮さんは、私が省略した部分を補足するように返した。
少し足早で家に帰る。
手から伝わってくる熱が私の足を突き動かしてくる。
なぜだかわからないけど、おかしくなりそうなほど恥ずかしい。すれ違う全ての人が私を見ているような気がして、まるで裸で外を歩いている気分だ。
だから、早く帰りたい。
いつもより速く歩いているはずで、それはほとんど走っていると言っても過言ではないはずなのに、なぜかいつもより家が遠く感じる。
ようやく家に着いて、すぐさま鍵を取り出して、玄関を開けて、中に入って、玄関を閉めて、鍵を閉めようとして、鍵を落として、鍵を拾って、鍵を閉める。
いつもなら流れでできることが、なぜか今日はおぼつかない。
「絶対におかしい」
口から零れてしまう。
おかしい。絶対におかしい。
たぶん、今日のことは夢だ。まだ夢を見ていて、ほら、目を開ければ私は自分の部屋のベッドの上にいる。そのあと、すぐに目覚ましが鳴って、嫌な朝を迎えるに違いない。
私は頬をつねるという、古典的な方法で今が夢か夢じゃないかを確かめる。
「‥‥痛い」
やっぱり、おかしかった。
自分の部屋に戻って、鞄を勉強机の横にあるフックにはかけずに、適当な場所に軽く放り投げる。
制服を脱いで、部屋着に着替えて、ベッドの上に寝転がる。
月宮さんが握ってきた右手を顔の前に掲げる。
月宮さんが握ってから、もう三十分は経っているはずだ。だから、この温もりは彼女のものじゃなくて、変に早歩きで帰って火照った私の温もりのはずだ。
けれど、月宮さんが握ったという事実が私を誤解させる。
わかっている。そのはずなのに、この手にはまだ月宮さんの温もりが残っていると思っている。
右手を顔に近づけて、具体的には鼻に近づけて、そのまま鼻に押し当てる。
少し汗ばんで湿っている。そのせいか、温もりと共に匂いがよく伝わってくる。
これはたぶん、私の匂い。
ただ、自分の匂いというものはよくわからないもので、私はこの匂いが完全に自分のものだと証明することができない。だから、この匂いはまだ疑いの段階で、もっと確かめるために嗅いでみる。
なんてことのない、普通の匂い。香水はつけていないし、そういう匂いがするはずもない。きっと、月宮さんも香水はつけていないはずだ。校則違反だから。
それなのに、そのはずなのに、手からは微かに花の匂いがする。
その匂いは間違いなく月宮さんのもので、その匂いが私の鼻を包む。自分の匂いはよくわからないのに、別にそこまで仲良くもない月宮さんの匂いはすぐに判別できてしまう。
ああ、よくない。よくないのはわかっているのだけど、でも抗えない。
手のひらから滲み出る汗が、顔を濡らす。染みていく。脳が麻痺する。
ぼーっとしていって、やがて焦点が薄れていく。
ふと、気付いた。
私‥‥キモ。
この頭は冷静じゃなくて、ほとんど夢の中にいるようだ。だから、現実に引き戻すためにも、私は洗面台へ向かった。
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