第6話 魔王の渇望と甘味の呼び声
魔王領首都グランフォルティスの中心にそびえる黒き魔王城。その尖塔は夜霧の中に浮かび、まるで世界を睥睨するように空を貫いていた。
玉座の間は静寂に包まれている。
深紅のマントをまとい、玉座に腰掛ける男――魔王ゼファード・ヴァルディスは、銀灰色の肌と鋭い金の双眸で、刻まれた紋章をじっと見つめていた。
二本の剣と翼を広げた竜。
それはこの地を統べる支配者の証であり、ゼファードが十年前、先代父王から王位を受け継いだ証でもあった。
戦乱に荒れた国を立て直すこと。民に飢えと恐怖ではなく、平和と希望を与えること。
それが、ゼファードが選んだ魔王としての道だった。
「……我が民は笑っている。それでいい」
低く呟き、瞼を閉じる。
だが、心の奥では、別の欲求が燻り続けていた。
――甘味だ。
忘れもしない、王子の時代、和平交渉という名目で人間領に滞在していたあの数年間。そこで出会った“スイーツ”という奇跡の食べ物。
ナッツ入りの焼き菓子。
干し果実を練り込んだ素朴なタルト。
果実の蜂蜜和え。
濃厚なミルクを炊き上げた、滑らかな甘い粥。
その全てが、魔王領では決して味わえぬ至福だった。
「……食べたい」
ぽつりと漏れた声は、王の威厳にはあまりに不釣り合いだった。
ゼファードはすぐに頭を振り、己を律する。
「否…王たる者が自国の文化に不満を漏らすなど……許されぬ」
拳を握り、肘掛けをきしませながら心の中で叫ぶ。
だが、それでもなお、心の奥に巣食う渇望は消えなかった。
「……食べたい……」
小さな呟きが、石造りの広間に滲むように響く。
その時――
「ギイ……」
重厚な扉が軋む音と共に、鎧の足音が響いた。
現れたのは、一人の男。
アルドリック・ヴォルテール。ゼファードの股肱の臣であり、幼馴染であり、親友でもある。魑魅魍魎が蠢く政治の世界で、唯一信頼できる存在だ。
だが、その彼にさえ、ゼファードは心の奥底を見せたことはなかった。
「おお、アルドリック。わが友よ。何か報告か?」
「はい、陛下。市場庁舎での変化についてご報告を」
ゼファードは興味を抱いたように眉を動かす。
「ふむ、詳しく話せ」
「まず井戸の構造が、鶴瓶式という仕組みに改良されました。てこの原理で、子供でも水を汲みやすくなっております」
「……ほう」
「さらに、調理場のかまども改善され、火力が安定し、燃料の節約にも繋がっております。フランクリンストーブという構造のようで、煙も外へ逃がせる仕組みです」
「それは……軍にも応用できるな。誰の仕業だ?」
一拍の沈黙。
アルドリックは、視線を静かに落とした。
「人間の娘です。サクラという名で、市場庁舎の調理場を仕切らせております」
「人間……だと?」
ゼファードの目がわずかに見開かれた。
人間料理。まさしく、自身の記憶を揺さぶる言葉だった。
「彼女は柔らかいパンやスープを作り、さらには肉汁滴るステーキなるものを試作しているそうです」
――それは、甘味を作れる可能性を示す存在。
抑えていた渇望が、一気に溢れ出した。
「……会いたい!」
ゼファードは勢いよく立ち上がると、玉座から身を乗り出す。
「その娘に会いたい!会って話したい!すぐに連れてこい!」
アルドリックは目を瞬かせたが、すぐに慣れたように一礼する。
「かしこまりました、陛下」
そして、玉座の間をあとにした。
「……人間料理……甘味……」
ゼファードは呟き、そっと目を閉じる。
それでも、心に秘めた願いを、声に出すことはまだできなかった。
その頃、市場庁舎の調理場では――
「うーん……この干し肉、どうにか柔らかくならないかな……?」
サクラは干し肉の塊を前に、悩んでいた。
「サクラちゃん!ステーキまだか!?」
「肉汁ステーキ!俺もう涎止まんねえ!」
ゴブ太とオークンが相変わらずの騒がしさで厨房を行き交う。
「塩で水分抜いて、繊維を叩いて……うーん…」
そんな時、扉が重々しく開き、鎧の足音が響いた。
現れたのは――アルドリック。
「サクラ。陛下がお前を呼んでいる」
「へっ……陛下って、魔王陛下!?え、なんで!?私、なんかやった!?」
アルドリックが冷静に言い放つ。
「恐れるな。ただ、急げ」
促されるまま、サクラは調理場を出た。
馬車に揺られ、霧の中を進む魔王城までの道のりは、短くも果てしなく感じられた。
* * *
そして、魔王城――玉座の間。
長く荘厳な廊下を抜け、広間に踏み入れたその瞬間、サクラは息を飲んだ。
黒き玉座に座る魔王。鋭い眼光。紅のマント。威圧感で足が震える。
魔王ゼファードが立ち上がり、声を発した。
「貴様がサクラか――甘味、食べたい!」
「……は?」
頭が真っ白になった。
威厳ある魔王の姿と、その言葉のギャップに呆然と立ち尽くすサクラだった。
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