バタケン

みどり、よう

第1話「バタケンと呼ばれた女」

 バタケンと呼ばれた女がいた。彼女は、人間になるって、東京へ向かった。


高校二年――三年



 夏よりか冬の方がまだマシ。夏はくっさいから。男も女もカンケーない。獣ケダモノ畜生。みんな人間じゃない。あんたもよ。

 股の間に顔を埋めるバタケンは、いっつもおんなじこと言ってから、舌をピンと張って、つっつく。

「ああ」

 声が漏れる。つもりはないのに漏れる。ネコニャンの足を踏んづけたときも「ニャ!」と鋭く鳴く。今まで聞いたことない声。ほんとに痛かった。つい漏れちゃった。猫も人間もおんなじ動物なんだって気づく。バタケンに言わせたら獣ケダモノ畜生。

 バタケンの舌にはチタンが埋め込まれているという、感覚。チタンは大袈裟でも、あずきバー並みには硬くなる。等間隔で振動したり、横に滑ったり、吸い込んだり自由自在。ダイソンと言う者もいれば電動歯ブラシだって言う者もいる。変幻自在の舌。すべてをひっくるめて、あいつのやってることはバタケンだ。自然そう呼ばれるようになった。

「ああ、くっせえ。ちゃんと洗ってんの」

「あ、洗ってる」

 バタケンは片手でスマホを持ち、じっと液晶見てる。

「……何分経った」

「二分。あと一分でイカせるから」

 チタン舌が小刻みに揺れる、ピンポンダッシュの少年のよう。

「ああ、そこは……」

 体がのけぞる。あ、出る、あの言葉も出る。

「イルカだ。あんたらは」

 美しく弧を描くイルカのイメージと異なって、バタケンの頭に描かれているのは、きっと、碧い海なんかでなく、藻が煮え立って、ヌルッと悪臭の強い新田川、ザリガニうようよ。なのにバタケンはザリガニだと言わずイルカと評す。そこに彼女の美意識があったのかもしれない。

「二分三十秒」

 バタケンが手品師となってティッシュをささっと抜き取り、口元を拭っている。絵面が、痰ジジイみたいで嫌だって言う者もいる。それよりか妙な照れ臭さがある。なんてはしたないことをやってんだ。人間に戻ってから、おんなじようにティッシュを借りて——返すことなんてないけど——股間に当てる。ティッシュに透けて指が微かに濡れる。鼻に持っていくと、わからない。無臭な気がする。そんなに臭くない。

「もう十分したら次来るから」

 帰れってことだ。まだ頭がぼーっとするのに、立てと急かしてくる。丸出しだった下半身に着てきたものをまとい、

「これ」

 と差し出す。昨日のバイトの日給が飛ぶ。五千円札。

「はい、毎度」

 バタケンはスカートのポケットに、三つ折りにした五千円を差し入れる。一時的な保管場所。噂によれば、バタケンはすぐに受け取ったお金をどこかに隠しているらしい。まさかこの狭い旧豚小屋ではあるまい。ここは藤田さんのお爺さんが保有していた土地のはず。

「バタ子……」

「呼ぶな、その名で」

 バタケンじゃかわいそうだと思って、呼びかけると、いつもバタケンは顔を顰める。FでもKでも、くっせえという以外、表情ひとつ変えないという噂なのに。

「本家本元『アンパンマン』のファンなんだ私は」

 意外な一面を知って、胸がキウキウと鳴った。キュンじゃない。バタケンにもかわいげあるじゃないか。やっぱりバタケンの言う通り、イルカなんだろう。

 帰り際、このあとは誰が来るのか、と聞いたら、

「教えるわけないでしょーが」

 と一蹴される。

「考えてみろ。あんたは、あんたの前のヤツに、おんなじこと聞かれて『狭山だよ』って私が教えたらどうする」

 少しは考えてみた、バタケンの言うように。たぶん興奮する者もいそうな気がする。あの子がFされたあと、あの子がKされたあとなんだ自分はって、興奮。

 考えた結果を伝えたら、

「あんたはそういう性癖があるのか」

 と真顔で問われたから、

「一般論」

「一般論ではない」

とやり合う。

「帰れ早く」

 粘ったつもりだが、背を押される。わずか三畳の〝間〟——「ま」と言われている——は、実は馬を飼っていたんじゃないかと言われていたり、ここは特別な〝間〟で、豚の出産場所だったんじゃないかと囁かれている。明らかに豚が何十匹も一緒に暮らしていたスペースとは違うからだ。


 藤田の爺さんは週末競馬場に行っていたけど、馬券を買っていたんじゃない。馬を見に行っていたんだ。密かに馬を飼いたいと願い、届けも出さず、馬をここで飼育していた。そのうち豚小屋の経営が立ちゆかず、最後は馬と心中した。藤田の爺さんは馬刺しに当たって死んだ。死因が余計に馬飼育説に信憑性をもたらした。飼っていた豚は買い取られ身寄りのない爺さんの借金返済に充てられたが、土地は残った。どうやら爺さんには息子がいたみたいで、名義が息子になっている。当人は行方知らず、爺さんの骨は市役所が焼いたが土地の処分はそのままになり、バタケンが勝手に根城としている。

 くっせえって、バタケンは言うけど、くっせえのは、ここが元豚小屋だからだ。イルカどころか、ほんとなら、豚の比喩の方がよほど適している。


 不良のたまり場になりそうなのにならないのは〝鉄の掟〟による。バタケンは、大人にバレたりネットにあがったら、即やめると言っているからだ。うちのクラスのエイゴは時代遅れのヤンキーで、ブレザーの下に赤いロンT着て、だぶだぶのボンタンっていうらしいふっといズボン穿いてる。誰かがユーチューブで、河島英五って昔の歌手の動画——「時代おくれ」という歌を歌っているらしいけど、なぜ検索にヒットしたのかは謎、オススメにあがってきたのかも謎——観てあだ名をつけた、というより陰で呼んでる。エイゴは腕っぷしが強く、近隣の輩たちが豚小屋に近づかないようシメまくったという。その河島英五って人も、どうやらガタイがいいみたい。

「ここは俺の縄張りだ。近寄ったらタダじゃおかねえ」

 実際タダでおかれなかった者がいて、そいつが人身御供になったおかげで、バタケンの根城と定まった。

 この鉄の掟は遵守されている。バタケンはうちのクラスのみ、それ以外はお断りとした。男女合わせて三十四人いるうち、バタケンにお世話になっているのは二十人超えているという。


 朽ちた横板をスライドさせると、太陽が眩しい。早くシャワーを浴びたい。バイト終わりはいつも思うけど、バタケンに会った日は違う。まだバタケンの唾液の残滓とチタン舌の感触が残るうちに自慰をしたい。

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