ハチマンコーヒーで、また会おう
@redjacket_rabbit
プロローグ 「帰ってきた町」
オレンジ色の灯りに柔らかく照らされた空間。ふっと鼻に漂ってくる香ばしいソースの匂いと、ふわりと甘い砂糖の香り。周りを囲む人々のざわめき、子どもたちのはしゃぐ声が混じる。そして、遠くから聞こえる太鼓の音が、一定のリズムを刻んでいる。
俺は誰かの背中におんぶされていた。温かくて、歩くたびに心地よく揺れる背中。視界の高さは、いつもと違って少し高い。目の前には白髪の後ろ頭。誰だろう——と思っていたそのとき、わずかに振り返ったその顔の輪郭と、そっと口元に浮かんだ笑み。その微笑みでわかった。じいちゃんだ。
道の向こうに綿菓子屋が見える。その店先に吊るされた、丸く膨れたいくつもの白い袋。名前は思い出せないけれど、大好きだったアニメのキャラクターが描かれている。あれを買ってもらわないと——そう思って、急いで顔を見上げた、その瞬間、緑色の光が視界いっぱいに飛び込んできた。
窓の外には、一面の緑。水を抜かれた水田が、風にそよいでいる。……そうか、中干しの季節だな。宇佐駅へと向かう、揺れる特急ソニックの柔らかな革張りの座席に体を預けながら、そっとおさえた目の奥ではまだ祭りの灯りがちらちらと残っているようだった。
懐かしい秋祭りの光景、の夢だった。あれは、たぶん四歳か五歳のころ。はしゃぎ疲れて祖父の背中で眠ってしまったお祭りの夜の記憶だろう。
俺は今、豊後高田へ帰っていた。
豊後高田市に戻ってきたのは、十数年ぶりのことだった。
この町は、国東半島の北西に位置する小さな地方都市で、かつては「昭和の町」として観光に力を入れていた。
商店街には昭和レトロを思わせる建物が並び、懐かしい雰囲気が漂っている。
宇佐駅からのバスを降りると、まさにその「昭和の町」の商店街を通る。子どもの頃にはなかった観光向けの駄菓子屋もあるが、雰囲気は昔のままの商店街。
時折、車と自転車と人の往来が、お互いに気をつけながら狭い通りを通り過ぎている隣で、駄菓子屋の中では幼い兄弟が楽しそうにお菓子を選んでいる。久しぶりに帰ってきたふるさとだが、つい最近までいたような気がしてきた。
ふと思いつき、通りを外れる脇道に入ってみる。少し空気も変わり、いくらかシャッターが閉まったままの店もある。この店は昔は何だっただろうか、そんなことを考えながら、すれ違う人の中には少し見覚えがある人も何人かいた気がする。ただ、誰だか思い出そうとすると、記憶からはずいぶんと老けていて、というか、このあたりは高齢者ばかりだった。
脇道を抜けると、古い神社がある。ここは秋祭りの時には本当にたくさんの屋台がでていて賑やかだった。今はどうなんだろうか。神社は昔と変わらない佇まいでそこにあり、ついさっきみた夢を思い出していた。
予想していた通り、若い世代が減ったのこの町は、昔とは少し違う。おそらくここで新しいことを始めようとする人も、そう多くはないはずだ。抱いていた仮説を心の中で確認した。
ただ、そんな町に「ハチマンコーヒー」という聞き慣れないカフェがあると聞いたのは、東京を離れる直前のことだった。
東京での生活も、悪くはなかった……。
東京の大学に進学し、大学院卒業後はそのまま都内のIT企業でシステムエンジニアとして働いた。
「作った便利なもので人に役立つ仕事」
そういうことがしたくて選んだ道だったが、その実感などはなく、メールテキストに書かれたクライアントの要望に応じたシステムを構築するため、毎日コードを書き、納期に追われる日々。
効率的。省エネ。確かにそうなのかもしれないが、同僚以外とは直接顔を合わせることもなく、モニターの前で指先だけを動かしていた。
「これで作業効率が上がりました」
「とても便利になりました」
心ある人からは、そんな言葉をもらうこともあったが、だんだんとそんな声すらも響かなくなっていった。システムを使う相手の顔が見えないまま、次々と仕事をこなすだけの毎日。
終わりの見えないアップデートと仕様変更に追われて、気づけば何のために働いているのかもわからなくなっていた。
ある時、同僚がこんなことを言った。
「結局、俺たちが作ってるものって、どこかにいる誰かにちゃんと役立ってるのか、って思うよ。誰かにありがとうって直接言われることもないし。何かAIの一部になった気がする」
その言葉が、妙に引っかかった。ずっと自分の頭の中にあった言葉が形になった気がした。満員電車に乗って顔のない人々とすれ違いながら、味の分からない何かを食べる毎日。今日は何日だったのか、いつ桜が咲いたのか。
仕事を辞める決心をしたのは、それからそう遠くない時期だった。
そして、この町に戻ってきた。
目的があったわけじゃない。東京での仕事に違和感を感じてはいたが、とはいえ、次に何をしたいのかも分からなかった。道に迷ったときは、わかる道まで戻れというし、節約すれば1、2年は暮らせるくらいの蓄えもあったし、しばらく何も考えずに高校時代までいた地元で過ごしてみようと思った。
そして、そんな時に偶然見つけた記事が、俺をハチマンコーヒーへと向かわせた。
『地域の人々が集まり、健康と暮らしを支え合うカフェ』
『コミュニティナースがいる、ちょっと変わったカフェ』
カフェにナース?
その意外な組み合わせからはまるで何かが想像ができない。でも、「コミュニティナース」という言葉が、不思議と心に引っかかった。
それは、俺が人との関わりを求めていたからか、それとも都会の暮らしに疲れていたからか。
そして今、ハチマンコーヒーの前に立っている。
ハチマンコーヒーは、実家のある玉津商店街を抜けた先にあり、突き当たりのお寺の前、髙田中学校へ向かう急坂との三叉路にあった。
築何十年かわからない木造の建物。昔は確か製材工場の倉庫とかがあった気がするが、昔の名残も残してあるためか、商業エリアでもなんでもないこの場所でも馴染んでいる。三叉路を右にまがり正面に回ると、通りに面した側にはガラス戸が並ぶ今風のオープンなカフェの様相となった。
都会的でもない、田舎的でもない不思議なカフェに入ってみると、ガラス戸の向こうには、コーヒーの香りと、楽しそうな話し声が満ちていた。
薄く聞こえるジャジーな音楽。
元気そうな高齢者の女性、お子さんと一緒のお母さんなど、四、五人の客がそれぞれにゆったり過ごしている。
注文カウンターの壁には『HACHIMAN COFFEE』と、その下に小さく『おせっかい』『3.3』と書かれている。
……おせっかい、ですか。
東京ではたぶん口にしなかった言葉だろうけど、田舎では、というか、この町では何か違うのかもしれない。
そう思いながら店の中に入ると、奥のカウンターの向こうでエプロン姿の女性がにっこりと笑った。
「いらっしゃいませ!」
軽やかなショートボブの髪が揺れる。
「初めてのお客さまですよね? ようこそ、ハチマンコーヒーへ!」
まるで俺の来店を待ち構えていたかのような笑顔に、思わず戸惑う。
「あ、ええと……」
「すみません、お名前を伺ってもいいですか?」
「?……吉田です」
「吉田さんですね!」
彼女の白シャツの上に重ねた紺色のエプロンには「ナナ」と書かれた名札が付いている。
「私、ナナと言います。はじめまして。ここ、ハチマンコーヒーの店長で、コミュニティナースをしています!」
「コミュニティナース……ですか」
「そうです! 地域の皆さんとつながって、一緒に楽しく健康に暮らすための、おせっかい係、みたいな感じです」
「おせっかい係?ですか」
「ええ! 一応、健康相談とかもやってますけど、でも、なんでもいいんです。ちょっとしたおせっかいで、誰かの役に立てそうならなんでもやります!」
ここにきて、急に元気な人に会ったことに面くらってしまった。ここは本当にカフェなのか心配になり、あらためて店内の様子を見渡す。左下のカウンター下には本棚があり、絵本などいろんな本がならんでいる。
奥には少し広い小上がりの板の間があり、二人のママが子どもたちを遊ばせている。またご高齢の女性が二人でお茶を飲みながらゆっくりしており、それぞれ穏やかな時間を過ごしていた。
古い二階建て木造建屋を改装しており吹き抜けになっている。右上には少しだけロフトのような二階スペースもあり、上には小部屋、下には木のパーティションが置いてある。
ふと目に入ったのは、ロフトの隣りに神棚。この辺りなら定番の宇佐八幡のお札。このカフェに不釣り合いというわけでもないが、少し立派なこの神棚が気になった。
「よかったら、座っていきませんか?」
公園かどこかで声をかけるようなナナの言葉が少し面白く感じたが、とりあえずブレンドコーヒーを頼んで、通りが見通せるベンチのような長椅子に腰を落ち着けた。
通りは別の一際大きな道につながり、ハチマンコーヒーは突き当たりにあるため見通しが良く、遠くの山まで綺麗に見える。
あれは西叡山か。やっとこの町に帰ってきたことを実感した。
この町に戻ってきたのは、ただの気まぐれだった。
でも、このカフェには、何かがある気がする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます