第四話 神に見捨てられた夜
痛みは長く引かなかった。
夕暮れ時から風と雨が激しく壁を打ちつけ、宗教家たちが飲むくそまずいスープが運ばれてきたころには、地響きのような雷鳴が夜空を覆っていた。
ロウソクの光なかでライベンはヴァルターの顔を思い起こす。
そうしてから、あのセレナ・ファルゴが去ってしまったこと。よりによってヴァルター・ノクスを追って消えてしまったことを理解して……「くそおおおっ!」とスープの乗った盆を壁に投げつけた。
薬のおかげで痛みの度合いは和らいだ。ただ、断続的に襲ってくる痛みに怯えながらライベンは寝床の上で自らの額をぎゅっと強く握った。
――おまえは敗者だ。敗者の、卑劣な醜態をさらしている。だからこそ、ご加護がないと言ったのだ。
名前も知らない騎士団長から言われたコトバ――。
ライベンは気だるい身を起こし、利き腕ではなく……左腕ならば、まだ自由が利くことを理解する。
握って、開いて、そしてまた握る。
ロウソクの光が隙間風に揺れた。その光の向こう側に、使い古した剣が見えた。安置された供物のような古い剣が、テーブルの上でライベンを見ていた。
* *
高位神官のアレクシス・フォーンは自室でふるい書物を読み返していた。
昼下がりに起こった騒ぎ――。
あの若い騎士見習いなのか、騎士なのかわからない大男が負った傷は、確かに珍しいものだった。書記官のロルフ・エクスナーには知見がないようであったが、五十年以上も神学と医学の道を歩んできたアレクシス・フォーンには、心当たりがあった。
ロルフ・エクスナーが言うように、王立修学院では履修をさせていない。それは『イゼル・ア・ムーナ』が絶対的な守護天使であるという王権の基礎をひっくり返しかねない『禁忌』の学問であり、禁じられた世界の秩序であると考えられているからだ。
ここ四十年以上はすっかり聞かなくなった『禁忌の秩序』――。
絶対的な守護天使であるイゼル・ア・ムーナに反逆する者――。
神殺しのチカラ――。
その素養を持ったものが、チカラを覚醒させて……あの大男に傷を負わせたというのだろうか。そうなれば『イゼル・ア・ムーナ』を絶対的な存在として信仰する秩序が崩れかねない。
平和と協調の守護天使――『イゼル・ア・ムーナ』はこの世界を支える。魔法という英知を構成する重要なひとつの『属性』に他ならない。
「しかし……」とアレクシス・フォーンは目を瞑って、椅子に背を預け、天を仰いだ。
昼と夜、男と女、善と悪――。
「なぜ輝かしい天使だけが存在していると断言できるのだろうか」
若き日に激論を交わした『相手』が声高に主張した言葉を思い出す。彼らは天使の対になる存在と秩序があることを主張した。
それはまさしく『邪教』であり『異端』であった。
アレクシス・フォーンは決して邪教を信じたり支持したりしない。
しかしながら、天使の対になる存在を否定する材料も持ち合わせていなかった。沈黙を守り、信仰を貫いた。迷いと不安と困惑を含む信仰である。
目頭を押さえて「ふぅー」とアレクシス・フォーンは顔を振った。
「不吉な夜だ……」
強い隙間風がロウソクの炎をスッと消した。
むうう、とアレクシスは小さく呻き、指を擦り合わせるようにして火種を作ってロウソクに火をともした。
そのとき、自室の扉が開いていることに……佇んでいる人影に気づいた。
「――なっ!」
返り血を浴びた大男は夜の闇と雨の重さを床に落としながら、手にしていたものを部屋に放り込んできた。
ごろごろと転がった丸い物体は、ろうそくの灯りに照らされて露わになる。
「ひいっ!」
そこに転がっていたのは青あざの浮く騎士団長の生首だった。激しく殴られ、片目をつぶされ、乱雑に切断された騎士団長の生首である。
ぎしぃっ……と大男が部屋に入って来る。
「イゼル・ア・ムーナの加護は、俺にある」
「あ、あ、あんた……」
「勝者こそが、正義だろ?」
虚ろな目で血を浴び、厭らしくほほ笑んでいる大男は……昼に負傷した若者だった。
彼は「ぐぅ」と痛みに呻きながらアレクシス・フォーンに言った。
「全員を教会に集めろ。誰がもっともイゼル・ア・ムーナの加護を受けた者か、示してやる」
そう言ってから彼は部屋に転がした生首を――髪の毛を鷲掴んで立ち去ったが、なにかを思い出したように振り返る。
「じいさんよォ、この傷がなんなのか……あんた知ってるんだろ」
「い、いや……わ、わたしは――」
「正直にならねえと、おまえにもご加護があるか確かめるぞ」
「わ、わたしは――」
雷鳴が若い大男を白く照らした。
「なあ、ジジイ……。俺をこんなふうにしたやつをぜってえに許さねえ。あのヴァルターを叩っ斬るためには、この傷の事を理解しなくちゃいけねえんだよ」
声を潜めて若者は言った。
断る事なんて、出来ない。アレクシス・フォーンは覚悟を決めた。
今日はひどい夜だが、まだ悪夢は終わりそうもなかった。
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