後編
食欲を誘う匂いが鼻をつく。アルバはゆっくりと目を開け、体を起こした。ぱさりと何かが落ちる音が聞こえ、彼が目を向けると、毛布が床の上に落ちていた。
目を擦りながら顔を上げると、正面で魔導書を読む魔女の姿が目に入った。
「アルバ、目が覚めたんだね」
「この匂いは……?」
「夜ごはんだよ。あ、心配しないで。大丈夫、全部魔法で作ったから」
魔女は微笑みながら魔導書を閉じる。書は光を帯びながら消え、魔女は立ち上がった。アルバは頭を支えながら彼女に続いて立ち上がる。
「すまん、俺が作るべきなのに」
「いいよいいよ、これくらい。料理本通りの味付けだから、味は悪くないと思うよ。全部魔法任せだから思いは籠っていないけど」
鍋の蓋を開け、魔女は一口味見をした。
「うーん。やっぱりアルバの作るスープの方が美味しい」
魔女の言葉に頬が緩まないように気を張り、アルバは魔女を手伝って料理を器に盛りつけた。これらの料理を全て魔法で作ったということはにわかに信じがたい。魔女だからこそできることだろう。
いつもの席に座り、食事を口に運ぶ。期待するような魔女の目に、アルバは口を緩めて頷いた。
「ああ、悪くない」
アルバの言葉に魔女はだらしなく頬を緩めて微笑んだ。その顔があまりにも可愛くて、アルバは彼女から目を逸らした。
「アルバ、顔赤いよ。熱でもあるの?」
「な、ない。食事中に体を乗り出すな!」
アルバの額に触れようと手を伸ばす魔女に注意をしながら、アルバは自然と笑みを浮かべた。魔女と出会う前まで、浮かべたことのない笑みだ。
そして、心に温かい気持ちと、冷たい気持ちが同時に灯った。
こんな日常が、永遠に続いてほしいと。魔女の傍にいる今の状態が、心から愛おしいと。魔女の笑顔が自分に向けられることが、心地いいと。
いつかは必ず、魔女を殺さなくてはいけないと。目の前で両親を殺した魔女が、心から憎いと。魔女の笑顔が自分以外に向けられることが、許せないと。
複雑な内心を無視して、アルバは魔女に向けて優しい笑みを向けた。
「あ、アルバが笑ってる。可愛い」
「は? 誰が可愛いって?」
目を鋭くさせたアルバを見て、魔女はしみじみと述べた。
「拾いたての君は、あんなに小さかったのに。今はこんなに大きくなって……」
「年寄りみたいなことを言うな」
「ぐっ。それは私にかなり効くからやめてくれ」
魔女が胸を押さえ、わざとらしくショックを受けたような顔を見せた。魔女は二百年以上生きているらしいが、見た目では一切そのように見えない。
苦しむふりをする魔女がおかしくて、アルバは笑い声をあげた。彼を見て、緑色の目を丸くした魔女も、優しく微笑んで笑った。
誰にも邪魔されない——いや、邪魔させない。
この楽しい時間が、ずっと続いてほしかった。
◇
「誰か来た」
食事と片付けを終え、頬杖を付きながら魔導書の続きを読み始めた魔女は、目を扉に向けた。魔女から与えられた課題を解いていたアルバは、ペンを机に置いて魔女を見る。
「……武器を持っている。私を殺しに来たのかな」
いつものように穏やかに笑み、魔女は立ち上がった。アルバも彼女に付いて行こうと立ったが、魔女に制される。
「アルバは隠れておいて。魔女と一緒にいるだけで、君も魔女の仲間とみなされるから」
アルバが頷いて姿を隠したのを確認して、魔女は扉を勢いよく開けた。魔法で施錠されていた扉は外から開けることは不可能で、無理やり壊そうとしていたらしい男数名が驚いたように彼女を見た。
魔女は宙に浮き、いつもとは違う、人を支配するような冷たい目を浮かべて男らを見下ろした。雨が降っているが、魔女だけを避けている。
「私を殺すからには、相応の覚悟が必要だぞ」
「……っ、馬鹿にするな! お前達、こいつを殺せ‼」
リーダーなのだろうか、そこそこ身なりの良い男は後ろの男達に命令を出した。魔女に向けて魔法が放たれる。
魔女相手に魔法とは、馬鹿らしい。魔女は鼻で笑ってその魔法を消滅させる。男達が慌てているのを笑って見ながら、魔女は空間から杖を取り出して奴らに向けた。
男達を無数の氷柱が囲む。
「こんな少人数で私を殺せるとでも思ったのか? 舐められたものだな」
嘲笑し、魔女は氷柱を男達に向けて放つ。それらは簡単に奴らを貫き、命を奪った。魔女は地に下り、屍と化した男達の元に歩く。しかしそんな彼女に向け、周囲の木陰から銀色に光る矢が飛んできた。
魔女はそれらに一瞥もせず、手を振って矢を防ぐ。
「何て浅はかな隠密魔法だ」
笑みを浮かべながら、魔女は指を鳴らして雷を落とす。耳障りな悲鳴が森に響き、魔女は顔を顰めた。
魔女はすっかり暗くなった空を見上げた。その瞬間、彼女は背後から衝撃を感じた。
背中から、刺された。
今までに感じたことのないような痛みが魔女を襲い、目の前が真っ暗になって地に倒れこむ。
近づいてくる足音が聞こえて、魔女は最後に小さく微笑んだ。
◇
魔女を刺した。
アルバは血濡れた短剣を持ち、倒れていく魔女の体を見ていた。
「よくやった、奴隷よ」
木に隠れていた男達が姿を現し、魔女の体に近づいていく。アルバは、雨で濡れていく魔女だけをただ静かに見ていた。
「人間に絆されて死ぬなんて、愚かな魔女だぜ」
「ずっと育ててきた人間に殺されるなんて、惨めだな。死にざまの顔がよく見えなかったのが残念だよ」
男達は下賤に笑い、魔女の体を蹴る。魔女はぴくりとも動かない。
アルバの前に、身なりの良い男が立ったので、彼はゆっくりと顔を上げた。
「魔女を殺したお前は、功績者だ。しかし、お前も魔女に絆されている可能性がある。この場で、死んでもらおう」
その男は、手に持った剣を振り上げた。アルバは自分に振り下ろされるだろうその剣を感情のない目で見る。
魔女が感じた痛みは、どれほどだったのだろう。魔女は痛みを感じないというが、あれが強がりだということはとっくに分かっていた。
「……そういえば、魔女は死んだら体が消滅するんじゃなかったか?」
魔女の近くにいた男の一人がそう言い、目の前の男が一瞬目をそちらに向けた。
目の前の男の首から、鮮血が飛び散った。
目に生気がなくなった亡骸を蹴り飛ばし、アルバは短剣を構え直して魔女を蹴った男の背後に一瞬で回り込み、それを脳天に突き刺した。周りの男達が耳障りな悲鳴を上げる。アルバは無表情のまま指を鳴らし、雷を降らせた。
自分の鬱憤を晴らすように、アルバは淡々と生き残りの息を止めていった。
「ルーク、全て片付けたか?」
アルバは肩の上に降り立った緑色の小竜に話しかける。竜は小さな頭を下げて、足に持った魔道具をアルバに渡した。
「これが通信魔道具か。ルーク、お前は賢い奴だな」
アルバが竜の頭を撫でると、竜は嬉しそうに喉を鳴らした。アルバは血に濡れた手を魔法で洗浄し、魔道具の電源を付ける。
「……こちら、『深い森の魔女』討伐隊の一員。魔女の討伐は完了したが、仲間は皆使い魔によって殺された。私ももうすぐ殺されるだろう。しかし、魔女の死は確実にこの目で確認した。これ以上の増援は、死者を増やすだけになる」
感情のない声で一方的に話し、魔道具の電源を切って魔法で破壊した。ばらばらになった魔道具の欠片を踏みつけ、アルバは肩に小竜を乗せながら体を翻してもといた場所に戻った。
「魔女」
アルバは地面に倒れる魔女の傍に膝をついて彼女を抱き上げる。彼が突き刺した背中の傷は塞がったのか、血はそれ以上流れていなかった。
「魔女、生きているか」
アルバは魔女を家の中に運び込み、彼女の部屋まで連れていく。魔女は目を覚ます気配を見せず、寝息も聞こえてこなかった。肩の上に乗る小竜も小さく鳴いて魔女に話しかける。
「魔女、すまない。俺はお前を殺そうとした」
寝台に魔女を横たえ、アルバは彼女の手を取って額に押し当てた。初めて彼女の手を取ったときはあんなにも大きかった手が、今ではもうアルバの手の方が大きくなっている。
「……魔女、お願いだ。俺を一人にしないでくれ」
アルバは初めて魔女に懇願した。いつもの彼女なら、笑って受け入れてくれるだろう。ただ、今の彼女の顔色は蒼白で、まるで死人のようにも見えた。
アルバは一晩明けるまで、魔女の手を握って彼女の無事を祈り続けた。
「本当に、死ぬほど痛かったんだからね」
緑色の目を持つ魔女は、顔に落ちてくる塩辛い水滴に嫌な顔をせず、アルバの頭を撫でながらいつもの優しい眼差しで彼を見た。
◇
「アルバ。私は魔女なんだよ? 今までも人間を大勢殺しているし、人間とは感性も常識も違う。君は人の子なんだから、魔女の傍にいない方がいいんじゃない?」
「何を今更。俺を拾ったのはお前だ。最後まで面倒を見やがれ。それに、人間なら俺も殺した。もう、俺もただの人の子ではない」
魔女の食事の手助けをしながら、アルバは変なことを言い出す魔女を睨んだ。鋭い紅い瞳に見られても、魔女は穏やかに微笑む。
「それにしても、何でアルバは私を殺さなかったの? 普通の銀の刃で心臓を貫いても、魔女は死なないって君に話していたよね。君は私達を憎んでいたのではないの?」
「……俺はお前を殺したくなかった。お前と、俺の親を殺した魔女は違う。魔女を一括りにして話すな」
ふいっと目を逸らしたアルバを不思議そうに見つめ、魔女は首を傾げる。
「あの男達とアルバは、仲間じゃなかったの?」
「仲間じゃない、あんな奴ら。俺の敵だ」
嫌そうに顔を顰めてるアルバを見て、魔女は口元に人差し指を当てた。
「これからどうしようかなぁ。私、このままここに住んでいられないよね。引っ越しするならどこがいいのだろう。この場所、気に入ってたんだけどな」
ため息を吐いた魔女を見て、アルバは手に持っていたスープの器を寝台横の机に置いた。
「俺に考えがある。一つ、素性を隠して町に下り、薬師として暮らす。二つ、結界をより強固なものにして、このままここに住み続ける。三つ、他の魔女を全員滅ぼしてお前は親人的だと証明する。四つ、いっそ全ての人間を滅ぼす」
「うーん? 随分と怖い考えをするのだね。どこかで育て方を間違えたのかな」
「それならば全部お前の受け売りだ」
魔女は頬に手を当てて考え込んだ。眉を下げて、困っているようにも見える。
「素性を隠して町に出るなら、私とアルバは夫婦ということにするのが都合が良いよね。この場所に住み続けるのは、今後面倒になりそうだし難しいかな。他の魔女を全員滅ぼすのは……もっと難しそう。私より強い魔女は溢れるほどいるから。全ての人間を滅ぼすのは論外」
魔女の大きな独り言に、アルバは思わず耳が熱くなるのを感じた。魔女と自分が、夫婦。なんて良い響きなのだ。だがアルバが気にしているだけで、魔女は一切動じていないのが気に食わない。
アルバは魔女が飲みかけのスープを一気に飲み干した。
「ああっ! 私のフールスープ! 何で飲んじゃうの」
「お前が悪い」
口を尖らせて抗議する魔女は、一見病み上がりとは思えない元気さだ。しかし、彼女が無理をして笑っていることを、アルバは知っていた。
「……まだ、痛むのか」
「え?」
白々しく魔女は首を傾げる。アルバはイライラした様子で、魔女の背中を強く叩いた。魔女は顔を顰めて声を漏らす。彼女は抗議するようにアルバを見たが、彼は目を伏せて頭を下げた。
「……悪い。俺は、お前にあんなことを……もしかしたら、あのままお前は死んでいたかもしれない」
アルバはそのまま顔を伏せた。そんな彼を見ていた魔女は、優しい微笑みを浮かべた。
「私は、君になら殺されてもいいと思っていたんだ。殺される相手くらいは選びたい」
「俺は、お前を殺したくなかった。俺は、お前がいないと、もう無理なんだよ」
泣きそうな顔を見せたアルバを、魔女は抱き寄せた。彼は慌てて身を引こうとするが、魔女に優しく頭を撫でられて、動けなかった。
「ごめんね、アルバ。私は、君につらい思いをさせてしまったみたいだ」
好きな女の前で、泣きたくない。だけど、もう涙を止めることはできなかった。
「……俺は、ずっとお前と一緒にいたい。俺がお前を守る。ずっと守る。だから、傍にいてくれ。一人にしないでくれ」
「うん、分かった。私は、ずっと君と一緒にいるよ」
一人じゃなくなったあの日から変わらない魔女の優しい声が、アルバには心地よかった。
「言質、取ったから」
「魔女に二言はないよ」
アルバは目元を強く拭って、微笑む魔女と額をぶつけ合わせた。
昨日は一日中降り続いていた雨は、すっかり止んだようだ。
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