第23話 空

 家へ全速力で走る短い間、彩佳あやかの頭はフル回転していた。

 なぜだ、私どこを間違った?

 知らないうちに「恋愛サイン」とか出していたんだろうか、「フェロモン」でも出していたんだろうか。

 そう思うと寒気が走る。別に二人からそんな風に好かれたいだなんて、1ミリも考えてなかった。ただただ笑っていただけなのに。気持ち悪い。


「おかえり。暑かったでしょ。今日はりょうがチーズインハンバーグ作りたいって張り切ってるの。手伝ってやってね」


 家に飛び込みリビングに入るなり、母から当たり前の日常が押し付けられる。なんだ、締め切りが近いんじゃなかったのか? 母がいたことに嫌気が差しながらも、彩佳は「そ」とだけ答えてキッチンの冷蔵庫からペットボトルを取り出す。冷たいお茶を震えた手で注ぎ、一気に飲み干す。


「どうしたの? 何かあった?」


「何も」


「そ、そう……」


 怪訝そうな母親をわざと無視して、からからに乾いた口と喉と心を潤そうと、さらにコップへ冷たい緑茶を注ぐ彩佳。


「そうそう、克也かつや君も手伝ってくれるって。あの子いい子ね。お母さん好きだな」


「へえ……」


 好きってなんだ、どういう意味だ。彩佳は盛大に足を踏み鳴らしたくなった。


「それに章太君も急に逞しくなった。みんな大人になっていくのね」


 その母の能天気な言葉に叫び出したい気持ちでいっぱいだった。が、かろうじてぐっとこらえる。母の前で子供っぽい醜態をさらしたくなかった。


「彩佳もきっとすぐね。大人になるのも」


「だから何? 私がさっさと大人になって誰かと恋愛でもして結婚して出てけってこと?」


 反射的に発された彩佳の声は怒りに震えていた。やっぱり私はこのうちでは異物なんだ。両親にとって本当の子供は凉だけで、父親が違う私は邪魔者で、さっさと出て行って欲しいんだ。そう思った。


「別にそんなこと言ってない。どうしたの彩佳」


 驚き少しうろたえた空は不安そうな顔になる。


「章太に好きって言われて、克也さんから告白されたよ今日! それでいい? それで満足? 私大人になったのこれで? そんなのひとっつも望んでないのに! ひとっつも!」


 呆然と彩佳を見つめるそらを前にして彩佳の口は止まらなかった。止めたいのに。こんなこと言ってもしょうがないのに。


「どうせ私ってこのうちでは要らないんだよね! 私だけ父親が違って! 今のお父さんは本当のお父さんじゃなくて、私の本当のお父さんは死んじゃってもういないんだし!」


 その瞬間、空の息が止まる音が聞こえた。はっとして母に目を向ける彩佳。空は明らかに動揺していた。それは忌まわしい記憶。死の臭いのする呪われた過去。そこから裕樹ひろきがようやく引きずり出してくれたのだ。だが、かつて愛した今は亡き夫の娘が放った一言で全てが巻き戻る。悔悟、罪の意識、失われた愛。それが一斉に空を襲う。

 胸元を押さえ、どこか遠くを見つめながら茫然自失といった体の空を見て、彩佳は何かとんでもないことを言ってしまったのだと気付いた。彩佳は章太、克也に続いて空も失ったんだと悟る。


「お母…… さん?」


 彩佳の存在すら見えなくなった空は一言「あああっ!」とうめいてうずくまる。息が短く荒くなる。

 その時チャイムの音がしてからリビングの扉が開いて、原沢が顔をのぞかせる。


「こんばんはー。ったく不用心だなあ。玄関の鍵開けっ放しだよ。って何? どうしたの? 何かあった?」


 ただならぬ様子にぎょっとした原沢を見た彩佳は、茫然とした表情で原沢の傍らを駆け抜けて、外へと飛び出す。


「おい、おい! どうしたんだよ! 何があった! またか? またなのか! おい彩佳! 彩佳お前なにしたんだ! おい!」


 開けっ放しの玄関から原沢の大声が聞こえてきたが、彩佳は構わず逃げ出した。章太からも、克也からも、そして母の傷からも。とにかく遠くへ、もう誰もいない遠くへ。彩佳は柵を飛び越え森の中へと消える。辺りは闇に支配されていた。


【次回】

第24話 森に迷う

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