第14話 影は音もなく

 夕暮れの空は、夏真っ盛りを思わせるぎらついた茜色に染まっていた。

 じゃじゃ麺を作るとそらが張りきっていた夕食の誘いに、彩佳あやかは「食堂で食べてくる」とだけ言い残して、母の制止も聞かずに外へ出た。


 あれほど真剣に勝負したのに、鼻差とはいえ母に敗れたことが悔しかった。顔を合わせるのもつらい。悔しさよりも、どこか恥ずかしさのようなものがあった。

 義父の裕樹と一緒にいるのも、なんだか今日は気が重い。あんなに近くにいたいと願っているのに、子供のころのように無邪気に甘えることはもうできない。中一の春に「実の父親ではない」と聞かされてから、自分の中で生まれた何とも言えない感情は、今も変わらず胸の奥底に残っている。

 食堂では、ひとりでサバの塩焼きを黙々と食べた。隅のテレビには日本代表の試合が映っていて、スタッフたちが歓声を上げるたび、箸を止めては耳を澄ませる自分がいた。


「よっ、なに? 一人でご飯?」


 目の前に原沢が現れ、軽い声とともに向かいの席に腰を下ろす。


「……なんとなく」


 ぼそりと答える彩佳に、原沢はにやりと意地悪そうに笑った。


「当ててみよっか」


 ドキリとする。義父へのこのやりきれない想いが顔に出ていたのか、と内心で身構える。しかし原沢は嬉しそうに続けた。


「そんなに悔しかったかあ、ママに負けたの。顔も見たくないくらい?」


「……なんだ。そっちですか」


 肩から力が抜ける。拍子抜けした彩佳に、原沢が茶化すように笑う。


「そっち? そっちってどっち? ていうか見てたよ、勝負。最初から最後まで。いやあ青春だねー」


「やめてください……」


 原沢はやけに楽しそうに彩佳の額をつついた。


「でも惜しかったなあ。今日のシエロは気配が良かったしねえ。駿馬は老いてなお侮りがたし、ってとこかあ」


「はい…… あと少しだったのに」


「フォーム、ちょっと硬かったかな。仕掛けも早すぎたかも。体幹鍛えてみたら?」


「……うん。でも、今はもう少し納得してます。私はまだまだなんだなって」


「へえ、物分かりがいいじゃん」


「『今は』、ですけどね」


 ふっと笑い合う。だが胸の奥に、言いようのない感情が残る。勝てなかったのは、技術だけじゃない。母と義父の仲睦まじい姿を思い出すと、胸の奥がずきんと痛んだ。自分は、母に嫉妬しているのかもしれない。そんなこと、考えたくもないのに。


「それでいいんだって。いつかは追い越せるんだから。 あたしなんか、もう一生……」


「ん?」


「あ、いやなんでもない。でも彩佳が、ちょっと『同志』に見えた気がしただけ」


 笑顔の裏に、一瞬だけ影が差す。原沢の言葉の意味を問おうとしたが、スタッフたちのざわめきが水を差す。テレビにはハーフタイムに流されるニュースが映っていた。それを見て深刻そうに言葉を交わすスタッフたち。


「“鶴脇山かくわきさん”って言ってたな。10キロ以上あるぞ」「いや、奴ら一晩で5キロ以上動くって……」


 がやがやと話し合うスタッフたちの様子に不安を覚え、思わず彩佳は声を潜めて聞いた。


「何かあったんですか?」


「うん、熊が出たみたい。人里で爪痕が見つかったらしい」


「大丈夫なんですか?」


「まあ、たぶんね。今までもそうだったし。でも、通学はエイールと一緒に行きな」


「え? どうして?」


 原沢は珍しくまじめな顔で言う。


「馬は鼻が利くから。人間よりずっと先に危険を察知するんだよ。……人間って、そういう本能が全然鈍ってるからさ」


「そうなんですか」


 そうかもしれない。自分の心だって、何を感じているのかよくわからないのだから。悔しさと、嫉妬と、憧れと—— よく判らない色々な何かが渦を巻いて混じり合っている。だから、自分の気持ちを言葉にすることができない。それがもどかしい。


「それより、まだ帰らないの?」


「……帰りたくないなあ」


 原沢は、冴えない顔をする彩佳の額をまたつつき、トレーを手に立ち上がる。


「あたしはもう帰るよ。別にここで寝てもいいけど、出るからね、ここ」


「えっ、なにが?」


「さあねえ。おやすみい」


 飄々ひょうひょうとした笑顔のまま去っていく原沢の背を見送ると、彩佳はゆっくりと席を立った。「帰るか……」 返却棚にトレーを戻す足取りは、まだ重たかった。


【次回】

第15話 星々のもと

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