放課後、秘密の準備室

 放課後特有の、ざわめきと解放感が混じり合った空気。それを断ち切るように、俺、斉藤 健太は人気の少ない第二音楽室へと足を向けていた。理由は単純、授業で使ったノートを忘れてきたからだ。


 軋む床を踏みしめ、がらんとした音楽室に入る。夕暮れ前の光が、大きな窓から斜めに差し込み、床に落ちた埃を金色に照らしていた。ピアノのカバー、並んだ椅子、壁に掛けられた作曲家の肖像画。静寂が支配する空間。


「……あった」


 窓際の長机の上に、見慣れたノートが無造作に置かれていた。ほっと息をつき、手に取った、その時だった。


 部屋の奥、普段はほとんど使われていないはずの、準備室のドアの隙間から、微かに話し声が聞こえた気がした。


(……誰かいるのか? この時間に?)


 風紀委員の見回り? いや、それにしては声が小さすぎる。好奇心、というよりは、何となく気になって、俺は音を立てないように、そっと準備室のドアへと近づいた。古い木のドアは、わずかに開いている。


 息を殺し、隙間から中を覗き込む。


 次の瞬間、俺は、自分の目を疑った。


 薄暗い準備室。壁には古い楽譜が立てかけられ、隅には壊れた譜面台か何かが置かれている。その、埃っぽい、忘れられたような空間の中心に、信じられない二人の姿があった。


 橘 隼人 生徒会長。常に冷静沈着、成績優秀、スポーツ万能。その完璧すぎるスペックとリーダーシップで、全校生徒から一目置かれる存在。女子からの人気も絶大だが、そのクールさ故に、誰も寄せ付けない孤高の「皇帝」とも称される男。


 そして、水瀬 雫さん。風紀委員会の長。校則を誰よりも遵守し、少しの乱れも見逃さない、真面目で堅物なイメージ。整った顔立ちだが、常に厳しい表情を崩さず、「氷の女王」なんてあだ名もあるくらいだ。


 普段なら、生徒会の会議などで、互いに理路整然と、時にはピリピリとした空気で意見をぶつけ合っている二人。それが……今、俺の目の前で……。


 橘会長が、壁に背中を預け、水瀬さんを、その腕の中に閉じ込めるように、優しく、しかし強く抱きしめていた。


「……ん……はやと……」


 水瀬さんの口から漏れたのは、聞いたこともないような、甘く、蕩けた声。彼女は橘会長の胸に顔を埋め、その白い指先は、彼の制服のブレザーの裾を、ぎゅっと、強く握りしめている。いつもきつく結い上げられている髪が少しだけ乱れ、うなじが覗いている。その姿は、普段の厳格な風紀委員の姿とは、あまりにもかけ離れていた。別人だ。これは、絶対に。


「……ん? どうした、雫。……足りない?」


 橘会長の声。これも、普段の、全校集会で聞くような凛とした声とは全く違う。低く、甘く、囁くような、聞いたこともない声色。彼の指が、水瀬さんの、絹のような黒髪を、愛おしそうに梳いている。その表情は……なんだ、あれは。見たことがない。完璧なポーカーフェイスで有名な彼が、まるで、宝物を見つめるかのように、目を細め、口元を緩ませている。……甘い。甘すぎる。


(え? は? な、なんだこれ……? あの橘会長が? 水瀬さんと? なんで? いや、そもそも、こんな雰囲気、ありえるのか!?)


 俺の脳は、目の前の光景を処理することを拒否していた。理解が追いつかない。だって、この二人は、むしろ対立しているイメージの方が強い。水と油。生徒会と風紀委員会。それが、こんな……。


「……だって……今日、会議で、隼人、あの女子生徒に、優しかった……」


 水瀬さんが、拗ねたような、それでいて甘えた声で、彼の胸に顔を擦り付ける。


「はは、妬いたのか? あれはただ、後輩に説明してただけだろ。……俺が、こんな風にするのは、雫、お前だけだって、わかってるくせに」


 橘会長は、くすくすと笑いながら、彼女の顎に指をかけ、上を向かせた。水瀬さんの、潤んだ瞳が、会長を真っ直ぐに見つめている。その瞳には、いつもの厳しさなんて欠片もなく、ただ、ひたすらに、彼への想いが溢れているように見えた。


「……ずるい。……隼人は、いつも、そうやって……」


「ん? 俺が何だって?」


 会長が、意地悪く微笑む。そして、ゆっくりと顔を近づけ……。


 ――軽い、リップ音。


 キス、した……。


 俺は、息を呑んだまま、固まっていた。見てはいけない。絶対に見てはいけないものを見てしまった。脳が、警鐘を鳴らしている。今すぐここから立ち去れ、と。


 けれど、足が動かない。まるで、金縛りにあったかのように。そして、視線は、ドアの隙間に釘付けになったまま。


「……ん……もう……」


 唇が離れた後も、水瀬さんは、まだ夢見心地のような表情で、会長の胸に寄りかかっている。


「……早く、みんなに言いたい……。隼人が、私のだって……」


「……もう少しだけ、待ってくれ。……生徒会の引き継ぎが終わったら、必ず。……今は、まだ、俺たちの秘密だ」


 秘密……。やはり、付き合っていることを、隠しているのか。


(そりゃそうだろ! こんな関係、バレたら学校中が大騒ぎになる!)


 橘会長と水瀬さんが付き合ってるなんて、トップニュース級の大事件だ。俺は、とんでもない秘密を知ってしまった。


「……でも、二人きりの時は、……こうやって、甘えても、いいんでしょ……?」


 水瀬さんが、上目遣いで会長を見上げる。その仕草の、破壊力。普段の彼女からは、絶対に想像できない。


「……当たり前だろ。……むしろ、もっと、甘えてほしい」


 会長は、再び彼女を強く抱きしめ、その耳元に顔を寄せた。


 何かを囁いている。


 何を言っているのかは聞こえない。けれど、水瀬さんの頬が、みるみるうちに赤く染まっていくのがわかった。


「……や……ばか……隼人の、えっち……」


 その、か細い、けれど明らかに蕩けた声を聞いた瞬間、俺の脳の中で、何かが焼き切れる音がした。


 ――脳が、焼かれる。


 比喩じゃない。本当に、物理的に、脳みそが熱でぐちゃぐちゃになるような感覚。目の前の光景が、理解の範疇を、常識の壁を、あらゆるものをぶち壊していく。


 あの、橘隼人が。あの、水瀬雫が。こんな……こんな、甘々で、デレデレで、エロティックな雰囲気を醸し出すなんて……。誰なんだ、お前たちは! 俺の知ってる橘会長と水瀬さんはどこへ行ったんだ!?


 二人の世界は、さらに深まっていくようだった。会長の指が、彼女の制服の、リボンのあたりを弄び、水瀬さんは、くすぐったそうに身を捩らせながらも、嬉しそうな声を漏らしている。もう、見ていられない。これ以上は、本当にまずい。


 俺は、音を立てないように、最大限の注意を払いながら、ゆっくりと、一歩、また一歩と後ずさった。準備室のドアから離れ、音楽室を横切り、廊下へと脱出する。


 廊下に出た瞬間、俺は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。心臓が、ドラムのように激しく脈打っている。額には、冷や汗が滲んでいた。


(……見た……見てしまった……)


 あの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。会長の甘い声、水瀬さんの蕩けた表情、二人の間の、濃密すぎる空気。


 あれが、あの二人の「本当の姿」なのか? それとも、俺は何か、幻覚でも見ていたのだろうか?


 いや、幻覚なはずがない。あれは、紛れもない現実だった。


 忘れ物を取りに来ただけなのに、とんでもないものを見てしまった。この秘密は、墓場まで持っていかなければならない。絶対に。


 俺は、まだバクバクと鳴り続ける心臓を押さえながら、逃げるように、その場を後にした。


 翌日。


 教室へ向かう廊下で、俺は橘会長とすれ違った。彼は、いつものように、涼しい顔で、数人の生徒会役員と共に歩いていた。その表情には、昨日の準備室での甘さは微塵もない。ただ、鋭く、冷静な、「皇帝」の顔があるだけだ。


 そして、自分の教室に入ると、風紀委員として朝の挨拶運動を終えたらしい水瀬さんが、自分の席で静かに教科書を読んでいた。こちらも、昨日のような甘えた雰囲気は一切なく、ただ、凛とした、「氷の女王」の姿があった。


 二人は、互いに視線を交わすこともなく、それぞれの役割を完璧にこなしている。まるで、昨日の出来事など、最初から存在しなかったかのように。


 その完璧なまでの「演技」に、俺は改めて背筋が寒くなるのを感じた。そして同時に、あの準備室での、二人だけの甘すぎる世界を思い出してしまい――。


(……うわああああ……思い出すな……!)


 俺は、一人、内心で絶叫しながら、自分の席に突っ伏した。脳が、また焼かれる。


 世界には、俺の知らない「裏側」が、確かに存在するのだ。そして俺は、そのとんでもない秘密の、ただ一人の目撃者になってしまった。


 この、甘すぎて、衝撃的すぎる記憶を抱えて、俺はこれからどうやって彼らと接すればいいんだ……?


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 もう二度と、放課後の第二音楽室には近づかない。絶対にだ。


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