放課後アディショナルタイム
土埃と汗の匂いが染みついたジャージを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びる。筋肉にこびりついた疲労と、それ以上に重くのしかかる今日の練習試合での不甲斐なさが、湯気と共に流れ落ちていく……なんてことは、やっぱりない。身体は怠いし、胸の奥はまだ、じりじりと焦げ付くように痛い。
ロッカーに押し込んだ制服に着替えると、途端に「日常」が身体にまとわりついてくる。さっきまでの、芝生の上での叫び声やボールを蹴る鈍い音、土埃の匂いは、まるで遠い世界の出来事みたいだ。チームメイトたちの「おつかれー」「また明日な」という声も、どこか現実味がない。私、佐伯 藍は、学校指定の硬いローファーに足を通し、夕暮れが迫るクラブハウスを後にした。
学校から少し離れた、このクラブチームのグラウンド。平日は放課後、休日は一日中。私の世界のほとんどは、ここにある。泥と汗と、時々、悔し涙に塗れた、私の「本当」の場所。
学校、というのは、その合間にある、少しだけ色の薄い時間だ。友達がいないわけじゃない。普通に話すし、笑う。流行りの音楽の話もするし、テスト前の愚痴だって言い合う。でも、どこか一枚、薄い膜があるような気がしてしまう。
彼女たちが熱中しているアイドルや、週末のショッピングの話。そういうのに、私はどうしても、心の底から入り込めない。彼女たちが悪いんじゃない。ただ、私の心の大半は、次の試合のこと、今日の自分のプレーの反省、足りないフィジカル、そういうもので埋め尽くされているから。
この感覚を、誰かに話したことはない。話したところで、きっと伝わらない。部活じゃない、学校外のクラブチームで、本気で上を目指している子の苦しさなんて。練習がきついとか、そういう表面的なことじゃない。もっと、根源的な……孤独感、みたいなもの。自分の全てを懸けているのに、その熱量を、日常ではひた隠しにしなきゃいけないような、そんな息苦しさ。
だから、学校にいる間、私は少しだけ、自分を演じているのかもしれない。「普通の女子高生」の仮面を被って。
翌日、気怠い身体を引きずって登校する。教室のドアを開けると、いつもの喧騒。朝のホームルーム前の、ざわざわとした空気。自分の席に向かう途中、ふと、窓際の席に座る彼の姿が目に入った。
望月 蓮。
特に仲が良いわけじゃない。クラスが同じというだけで、ほとんど話したこともない。いつも静かで、クラスの中心にいるタイプでもない。けれど、どこか、他の男子とは違う種類の空気を持っている気がしていた。
彼も、学校外のクラブチームに所属しているらしい。スピードスケート、だったか。前に、クラスの女子が「望月くん、また全国だって。すごいよねー」と話しているのを、小耳に挟んだことがある。
その時、私は妙に、その言葉に引っかかったのを覚えている。スピードスケート。氷上の孤独な競技。サッカーとは全く違うけれど、きっと彼も、学校という「日常」の外に、自分の全てを懸ける「本当」の世界を持っているんだろうな、と。勝手に、そう思った。
それ以来、私は、無意識に彼の姿を目で追うようになっていた。自分でも、気づかないうちに。
体育の時間。持久走で、他の男子が息を切らしている中、彼は涼しい顔で、滑るようにトラックを周回している。無駄のない、鍛えられた身体の動き。ああ、やっぱり、と思った。彼も、見えないところで、血の滲むような努力をしているんだろうな、と。
授業中。窓の外を眺めているようで、その視線は遠くを見ている。黒板の文字を追う横顔は、どこかストイックな光を帯びている。ノートを取る指先が、時折、神経質そうに動く。
彼がどんな練習をしているのか、どんな目標を持っているのか、私は何も知らない。けれど、勝手に想像してしまう。早朝の、誰もいないリンク。エッジが氷を削る、鋭い音。凍てつくような空気の中で、ただひたすらに、己の限界と向き合う姿。
それは、私が放課後のグラウンドで感じているものと、どこか似ている気がした。喜びよりも、悔しさや苦しさの方が多い、報われる保証なんてどこにもない、それでもやめられない、あの感覚。
だから、目で追ってしまうのかもしれない。彼の中に、自分と同じ種類の孤独と、矜持のようなものを見てしまうから。彼が笑っているところなんて、ほとんど見たことがない。いつもどこか、別の場所にいるような、そんな雰囲気を纏っている。
ある日の放課後。その日は珍しく、クラブの練習が休みだった。教室に残って、溜まっていた課題を片付けていると、窓の外が、いつの間にか深いオレンジ色に染まっていることに気づいた。他の生徒はもうほとんど帰ってしまい、教室には私と、あと数人しか残っていない。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
教室の後ろの方の席で、望月くんが、一人、窓の外を見ていた。夕陽が、彼の横顔をドラマチックに照らし出している。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。ただ、いつものように、静かで、どこか遠い場所にいるような佇まい。
その瞬間、彼が、ゆっくりとこちらを向いた。
視線が、合った。
ほんの、一瞬。けれど、その一瞬が、永遠のように長く感じられた。彼の、深い色の瞳。そこには、驚きも、戸惑いも、何も映っていないように見えた。ただ、静かに、私を見つめている。
時間が、止まった。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。息が、詰まる。視線を逸らすことができない。まるで、彼の瞳に吸い込まれていくような、不思議な感覚。
どれくらいの時間、見つめ合っていただろうか。ほんの数秒だったのかもしれない。けれど、私には、もっとずっと長い時間に感じられた。
先に視線を逸らしたのは、彼の方だった。ふいっと、また窓の外へ顔を向ける。何も言わずに。
残された私は、まだ動けずにいた。身体中の血液が、顔に集まってくるのがわかる。頬が、熱い。さっきまでの、彼の視線が、まだ私の肌に焼き付いているような気がした。
なんで、今、こんなに動揺しているんだろう。ただ、目が合っただけ。それだけなのに。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛い。これは、悔しさとは違う痛みだ。もっと、甘くて、切ないような……。
気づけば、窓の外の夕焼けは、さらに濃い色合いを増していた。放課後の喧騒は完全に消え去り、教室には、西日と、私の、早鐘を打つ心臓の音だけが満ちている。
私は、逃げるようにノートを閉じ、鞄に詰め込んだ。彼のいる方を見ないようにしながら、足早に教室を出る。廊下を歩きながらも、まだ心臓は落ち着かない。
(……今の、何だったんだろう……)
彼の瞳を思い出す。何も語らない、静かな瞳。けれど、その奥に、何か、私と同じ種類のものを感じた気がした。孤独、焦燥、そして、譲れない何か。
それは、ただの私の感傷的な思い込みなのかもしれない。
でも、もしかしたら。
学校という、この少しだけ息苦しい「日常」の中で。彼だけは、私の「本当」の世界を、少しだけ、理解してくれるのかもしれない。言葉を交わさなくても。
そんな、淡い、けれど確かな予感が、胸の中に芽生え始めていた。
帰り道。夕焼け空を見上げる。まだ胸は少しだけ痛むけれど、それは不快な痛みではなかった。むしろ、どこか心地よいような、そんな気さえした。
明日、学校で彼に会ったら、私はどんな顔をするだろう。また、目で追ってしまうだろうか。そして、また、視線が合う瞬間が訪れるだろうか。
何も始まっていない。何も変わっていない。
けれど、確かに、何かが、私の心の中で、音を立てて動き始めた。そんな気がした。
放課後のアディショナルタイムは、もう終わった。けれど、私の心の中の試合は、まだ、始まったばかりなのかもしれない。
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