第39話「海霧の祠と、“眠れぬ記憶”」

 渡り廊を抜けたミサとレティアは、風の静まった山間を下り、小さな港町に辿り着いていた。

 そこは《ハルナの入江》と呼ばれる漁村で、朝晩には深い海霧が町全体を包むという。


 ふたりが町に入ったのはちょうど夕暮れ時。海から立ち上る霧が、静かに町の輪郭を溶かし始めていた。


「……ここにも、“声”がある気がする」


 ミサがそう呟いた瞬間、《遺響の契約》が微かに共鳴した。


 ハルナの入江には、海の神を祀る祠がある。しかし、その祠はある事件以来、地元の人間すら近づかなくなったという。


 「昔、この祠で“交渉が拒絶された”って記録があるんだ」


 港の長老がそう教えてくれたのは、宿を借りた翌朝のことだった。


 「祠に祀られていたのは、“名もなき海の子”。漁師たちの無事を願って捧げられた魂だったが、ある日突然祠は閉ざされ、その周囲では漁もできなくなった」


 「声を聞かれなかった魂が、いまも“ここ”にいる」


 ミサとレティアは霧の中、海岸沿いの小道を進んでいた。


 やがて現れたのは、白く朽ちかけた木造の祠。

 風はなく、海の波音すら遠く感じられるほど、そこだけが世界から切り離されたようだった。


「……あの中に、“名もなき魂”がいる」


 ミサは手を伸ばして扉を開けた。

 ギィ……と古びた音を立てて、祠の中に淡い光が差し込む。


 その中央には、ひとつの小さな“石像”が置かれていた。

 子どものような姿。けれど、目は閉じられたまま。

 まるで“語ることを拒んだ記憶”そのものだった。


 ミサはそっと跪く。


「あなたは……誰かに祈りを捧げる代わりに、“自分の名”を差し出したのね」


 《遺響の契約》が応えるように光を放ち、ミサの視界が揺れる。


 記憶の中に引き込まれる。


 霧の中でひとり、名もなく、ただ“願われる存在”として生まれた魂。

 その子は、自分のために祈られたことが一度もなかった。

 誰かのために願う“器”として、ただ在り続けた。


 けれど、本当は——ただ、一度でいい。

 「あなたが生きていてくれてよかった」と、そう言ってほしかった。


「……私が言うよ」


 ミサは、涙を堪えながら、石像に手を伸ばす。


「あなたは、“祈る器”なんかじゃない。

 あなたの存在そのものが、誰かの支えになってた。

 ……あなたがここにいてくれて、本当によかった」


 その瞬間、石像の目がゆっくりと開かれた。


 そして、小さな声が、祠の中に響く。


「……ありがとう」


 ただ、その一言。

 けれど、確かに“誰かに届いた言葉”だった。


 ミサの目に、静かに涙が溢れる。


 現実に戻ると、祠の中に柔らかな風が吹き抜けていた。

 長らく閉ざされていた空間に、ようやく“対話”が戻ってきたのだ。


「……ミサ、今の声……」


「うん。……届いたんだと思う。“眠っていた祈り”が」


 レティアはミサの手を握る。


 その手は、少し震えていた。


「無理するな。……あんたが傷ついたら、私、守る意味がなくなる」


「……大丈夫。あなたがいるから、わたしは、ちゃんと戻ってこられる」


▶ スキル進化:《遺響の契約リミナリス・ハーモニア》が深化:

《慰音の契約(カレイド・ノクターン)》を獲得。

 ——魂に寄り添い、未解決の祈りを安らぎの音へと変換することができる。


 霧の中でふたりは祠を出る。

 夜明けの光が、ほんの少しだけ、海を照らしていた。


 ふたりの旅はまだ続く。

 だが、今確かに、ひとつの“祈り”が報われた。


 ——そして、次なる交渉へと心は静かに、進んでいく。


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