第29話「契約の地図と、“始まりの扉”」

 朝霧の立ち込める山道を、ミサとレティアは静かに歩いていた。月降る谷を後にして三日、ふたりは《契約の起点》と呼ばれる地を目指していた。


 それは、“始まりの契約”が最初に交わされた場所。神と人、そして魂が繋がった場所とされ、今も伝承の中にのみ語り継がれている。


 ミサの中には、《魂響交渉》で触れた幾つもの魂の残響がまだ微かに残っていた。優しいものも、重たいものも、そのすべてが彼女の中に根を張っていた。


「……ここ、本当に道なのか?」


 レティアの苦笑混じりの声に、ミサも小さく笑う。道は既にほとんど獣道のようで、踏みしめるたびに草が音を立てた。


「大丈夫。契約の地図には、確かにこの先に“扉”があるって……」


 ミサは腰の小袋から、古びた羊皮紙を取り出す。それはイリスが彼女に託した“契約の地図”だった。


 かつて世界が神と交渉し、調停者がそれに異を唱えた時代。この地図はその交点、あるいは矛盾の焦点を示すものだった。


「ほら、この印……“銀の枝”が目印って書いてある」


 視線を上げたその先、木々の間に一本だけ銀色に輝く木が立っていた。太陽の光が届かない森の中、それはまるで別の世界から差し込んだ月光のようだった。


 ふたりは木のもとに立ち止まり、その根元を囲うように配された石碑を見つけた。


 石碑には、古代語でこう記されていた——


『汝、魂をもって契約せし者よ。この扉の前にて真なる問いを得よ』


「……問い?」


 その瞬間、石碑が淡く光を帯び、地面がわずかに震えた。土が崩れ、銀の枝の根元に、隠されていた“扉”が現れる。


 黒い石で作られた、重厚な円形の扉。その表面には契約の紋章と、無数の手形が刻まれていた。


「これが……“始まりの扉”」


 ミサが近づくと、扉が反応するようにわずかに光を放つ。しかし、開く気配はない。


「何かが、足りないのか……?」


「……問い、だって言ってたな」


 レティアがミサの肩に手を置く。


「ミサ。今、あんたの心の中にある“最も深い問い”を、この扉にぶつけてみろ。あんたの魂が、この場所に“開け”って言える問いを」


 ミサは深く息を吸った。胸の奥、揺らぎの中心にある問い。


(私は……この世界で、誰かを救いたい。だけど、救うことが、誰かを壊すかもしれない。それでも——私は進むべき?)


「私は……“傷つけずに救う方法”は、あるの?」


 その瞬間、扉の中心が脈動し、白い光が溢れ出す。


 ——問い、承認。


 扉がゆっくりと開いていく。


 中から流れ込むのは、光ではなく“記憶”だった。過去の世界、神々の声、かつての交渉、そして——調停。


「行こう。これは、私たちの記憶じゃない。でも、私たちが受け継ぐべきもの」


「ああ。お前が進むなら、私はその隣にいる」


 ふたりは手を取り合い、扉の向こうへと歩み出した。


 それは、交渉者と調停者の物語の“始まり”へと続く道だった。


(つづく)

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