序章「鋼の心、罵詈に沈む」後編

 店内は照明がやや暗めで、壁には手書きの短冊メニューがずらりと並んでいた。どこか懐かしい和の雰囲気に、油とタレの香ばしい匂いがしみ込んでいる。カウンター席からは串焼きが焦げる音が聞こえ、奥の座敷では若手たちの声がひときわ賑やかだった。


 「いやー、今日は飲むぞー! 正道さん、お疲れッス!」

 「お疲れ様です~」

 「定年、いいなぁ。俺も今すぐ辞めたいわ」


 グラスが何度も鳴り、ピッチャーのビールが小気味よく注がれる音。皿の唐揚げは一瞬で消え、ポテトフライが争奪戦になっていた。スマホで写真を撮る者、笑いながら乾杯動画を上げる者――そこに流れる空気は、あまりに軽い。


 若手たちは春人の隣に密集していた。輪の外にいる者はいなかった。いや、一人を除いて。


 朝霧正道は、その輪の端、最も隅の席に座っていた。壁に背を預け、手元のジョッキには一口も減っていないビール。前に置かれた小鉢や焼き鳥は手付かず。箸すら取っていなかった。


 「正道さんって、昔はもっと厳しかったんすよね? 今で言うパワハラ全開だったって聞いたことある」

 「いや、今でもちょっとその気あるよ。現場でいきなり“仕上げ砥石変えろ”とか、誰も頼んでないし」

 「昭和のノリですよね。AIラインとか知らないんじゃないですか」

 「それで新人が三人辞めたって話、あれ絶対正道さんが原因っしょ」


 笑い声があがる。誰も止めない。誰も気にしない。

 正道は黙っていた。口を開けば、何かが壊れる気がした。


 「てかさ、あの結婚式のやつ、本当なんですか?」

 「うわ、出た。伝説の“トンズラ事件”!」

 「結婚式の一週間前に婚約者が職場の上司と駆け落ち。それで全部ローンが正道さんの名義。ガチでやばすぎ」

 「式場キャンセル、新婚旅行パー、指輪もローン残り。しかも会社でもネタにされて、独身貫いて、今ここ」

 「そりゃひねくれるわ。っていうか、俺なら会社やめてる」

 「それでも来続けたのが逆に怖いんだよね……もはやゾンビメンタル」


 場が爆笑に包まれる中で、朝霧の表情は一切動かなかった。

 彼の周囲だけ、温度が下がっているようだった。座布団の縁、グラスの水滴、机の隅に落ちた小さな破片。目につくのは、そんなものばかりだった。


 「それでも“技術で人は変わる”とか言ってたっすよね。あれ、笑い話としては秀逸」


 「変わるどころか、人が辞めてるんだよなぁ……」


 「むしろ人間関係破壊兵器。俺の後輩も辞めたし」


 「老害って、こういう人を指すんじゃないですか?」


 春人がにやりと笑って言うと、また笑い声が重なった。


 正道は、グラスを握った。だが、持ち上がらなかった。手が冷たく、指が固まっていた。


 (笑ってる……全員、笑ってる。俺を、だ)


 四十年。この手で削り、磨き、叩き込んできた。

 後輩の失敗も、自分の責任としてかばった。技術を継がせようと、声を張った。

 だが今、自分は“笑える過去”でしかない。


 「でも、もうすぐ辞めるってマジ助かる」

 「現場が平和になる」

 「むしろ定年、もう少し早くても良かったよね」


 乾杯の声が上がった。ジョッキがぶつかる音が店内に響く。


 だが、正道のグラスに、誰も注ぐ者はいなかった。

 乾杯の音が響いても、正道の耳には何も届かなかった。

 まるで水の中に沈んでいるようだった。目の前に広がるのは笑い声と明るい照明、焼き鳥の匂いとグラスの音。なのに、全てが遠い。にぎやかなはずの空間の中で、ただ一人、鉄板のように冷たい沈黙に包まれていた。


 (これが俺の、最後か……?)


 定年退職。四十年以上を費やした職場。積み上げてきた技術と信念。

 それが今、笑いのネタになっている。

 彼らの言葉は、罵詈のように鋭く、細かく、心に突き刺さる。


 「老害」

 「産業廃棄物」

 「排出処理」

 「時代遅れ」


 一つ一つが、針のように身体の内側を這い回る。

 ただの冗談のように吐き出されたその言葉たちに、ここまで痛みを覚えるとは思っていなかった。


 (俺は……伝えたかっただけなのに)


 新人の失敗も、自分のせいとしてかばった。怒鳴った日も、仕上げ角度を細かく指摘した日も。すべては、命を守るためだった。手を抜けば、怪我をする。現場では“甘さ”が命取りになる。


 だが、その想いは誰にも届かなかった。


 (怒鳴った俺が悪かったのか? けど、黙っていたら、あいつは指を落としてた。……あれもダメだったのか?)


 呼吸が浅くなる。目の奥が熱い。

 喉が詰まり、息がまっすぐ降りてこない。


 笑い声が続く。正道の名を茶化す声すらも聞こえてくる。


 (誰も止めないのか……?)


 そう思って顔を上げようとしたが、首が重い。肩が動かない。

 まるで体全体が鉛になったかのようだ。心臓の鼓動が、ゆっくりと、しかし確実に乱れ始めている。


 (おかしい……)


 冷や汗が背中を伝う。額の皮膚が張り詰める。視界がゆらめき、グラスの縁が二重に見えた。


 (これは……まさか)


 グラスを握ろうとしたが、指に力が入らない。関節がうまく動かず、ただ震えるばかりだった。喉を開こうとしても、呼吸すら困難になっていく。


 (なんで……こんな時に)


 自分の身体が、自分のものではないように感じる。

 笑い声が次第に遠ざかる。誰かが正道の方を見たかもしれないが、反応する気配はない。


 (誰か……)


 誰にも助けを求められなかった。いや、求めていないのかもしれない。

 今さら、誰に何を伝えればいいのかもわからない。どれだけ怒鳴っても、丁寧に教えても、最後に残るのはこの笑い声だったのだから。


 (もし……この世の罵詈が、全部消えたなら)


 その瞬間だった。


 胸の奥で、はっきりと“音”が鳴った。

 金属が無理やり折れるときの、いやな音。心臓の奥で鉄板が裂けるような、鋭い“パキッ”という破裂音。


 世界が、ひっくり返った。


 身体が椅子から崩れ落ちる。視界が白く染まり、音が遠のく。

 倒れるとき、頬が床にぶつかった感覚すらあった。だが、それすらもうまく感じ取れなかった。


 誰も気づかなかった。誰も動かなかった。

 誰一人、正道の名を呼ばなかった。


 ――静かに、正道の意識は、沈んでいった。

 白く、冷たい深淵の底へ。



 気がつけば、白かった。


 どこまでも、何もかもが白く、境界がなかった。

 上も下もなく、地平もなければ空もない。ただ真っ白な霧に包まれているような、静かすぎる空間。


 それは音を失った世界だった。


 けれど――確かに、“何か”が近づいていた。


 ――ゴォン。


 最初に響いたのは、鉄を打つような音だった。

 金床に鋼を乗せ、巨大な槌で一撃を加えたかのような、低く重い衝撃音。


 そして二度目。


 ――ゴォン。


 空気が震える。白い世界に、裂け目のような黒い影が差す。

 その中央に、ゆっくりと何かが“成形”されていく。


 やがて、歩いてくる者が現れた。


 影は大きく、鋼鉄のごとき重厚な輪郭を持ち、腕には炉のように赤熱した紋様が刻まれていた。

 頭には火炉を象った冠。瞳には灼けつくような光。

 その背には、何千もの火花が尾を引いていた。


 「……目覚めたか、鍛ち直す者よ」


 声は、金属と火の咆哮が重なったような響きだった。

 言葉ではなく、振動と熱で理解するような、存在そのものの宣言。


 「おまえの願い、確かに聞き届けた。罵詈がすべて消えればと、そう強く願ったな」


 白い空間に、ゆっくりと何かが浮かび上がる。

 それは、正道が長年使っていた工具――小さなピンセット。


 だが次の瞬間、ピンセットが変質を始めた。


 金属がうねり、ねじれ、先端が砕け、火花が噴き出す。

 形が崩れ、再び組み直され、数秒後にはまったく別の道具になっていた。


 ――ヤスリ。


 使い込まれ、角が丸まりかけていたが、鋭い凹凸が新たに彫り込まれていた。

 まるで、過去の痛みと怒りが刻印されたかのように。


 「それは、おまえの“心”だ」


 「バリのように刺さる罵詈――未加工の言葉を、削り、研ぎ、再構成せよ」


 「その力を、おまえに授ける」


 神の右腕が持つ巨大な槌が、宙を打つ。

 第三の打音が空間を震わせる。


 ――ゴォォン!


 ヤスリが火花をまとい、正道の胸に光が流れ込んだ。


 《スキル習得:罵詈造金(ばりぞうごん)》


 《内容:他者の侮蔑・怒声・嘲笑など、悪意ある“言葉”を素材に変換し、呪具・武装を錬成可能》


 《鍛えた感情、削り落とした怨嗟ほど強力な性能を持つ》


 《付加:鍛冶技術との親和性上昇》《罵詈感知》を自動付与


 情報が脳内に叩き込まれるように流れ込んできた。

 指先が震える。だが恐怖ではなかった。

 それは、確かに“職人”としての血が騒いでいた。


 「……これが……俺の、力か」


 神が、燃えるようにうなずいた。


 「鍛ち直せ。世界を。言葉を。人の魂を」


 「鍛冶屋とは、壊す者に非ず。歪みを正し、力を与える者なり」


 火花が再び舞い上がる。


 重力が戻る。

 風が吹く。

 熱が、世界に流れ込む。


 朝霧正道の身体は、光の中に呑まれて――

 異世界の大地へと、再び“鍛え直されるために”降り立った。

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