【三題噺】雨音がやまない場所で

本日の三題:夕立の屋上、折れたアンテナ、帰らない誰かの椅子


 放課後、誰もいない校舎の屋上に、カエデはいた。

 空は灰色に染まり、夕立が屋上のコンクリートを強く叩いていた。  雨粒の音が世界を占拠するなか、カエデは古びたベンチの端に座っていた。

 そのベンチの隣には、いつも“彼”が座っていた椅子がある。

 今は、空席のまま。 ——帰らない誰かの椅子。

 折れたアンテナが視界の端に見える。先月の雷雨で倒れてから、まだ修理されていない。彼はそれを見て「避雷針みたいで格好いいな」と言って笑っていた。  カエデはその笑顔を、今でも正確に思い出せる。

 でも、声のトーンや間の取り方は、もう曖昧だった。



「なあ、そっちはどう? そっちでも雨、降ってる?」

 問いかけは風に溶けた。返事がないのは分かってる。けれど、言葉は口をついて出た。

「こっちは今日も降ってるよ。ほら、バカみたいに。洗濯もの全部アウト」

 ぽつん、と苦笑いする。

 屋上に誰も来ないのは分かっていた。もう立ち入りは禁止されてるし、鍵だって勝手に持ち出してる。

 でも、ここだけが“彼”と地続きでつながっていた。

 ここで笑って、ここで怒って、ここで黙って、泣いて。

 その全部を、この空と、この雨は覚えている気がした。



「さ、寒くなってきたな」

 声に出して言ってみる。雨は止む気配を見せない。ポケットに突っ込んだ手が、湿っていた。

 彼は、ここに傘も持たずによく来ていた。雨が降るとわかっていても来た。

「濡れるの、嫌いじゃない」と言っていた。

 ——本当は、隠してたんじゃないかと今なら思う。

 雨の中なら、泣いてもばれないから。



 カエデは自分の靴が濡れているのを見て、少し笑った。

「ほら、またおそろいだよ。今日も、雨」

 隣の椅子に視線を向ける。

 そこには、やっぱり誰もいない。

「……って言ったら、また照れるんだろうな。あんた」

 カエデの声が、ようやく震えた。



 彼は、もうここにはいない。

 言葉にしたくなかった真実。けれど、それを否定し続けるには、時間が経ちすぎた。

 事故だった。何の前触れもなく、ただ突然に、日常が“空白”になった。

 残されたのは、教室の端の空席と、屋上のこの椅子だけだった。



「でもさ……そろそろ、ちゃんと話すよ。ちゃんと伝える」

 カエデは深く息を吸った。

「いなくなって、寂しかった。めちゃくちゃ寂しかったよ」

「ムカついた。なんで置いていくんだよって、本気で思った」

「でも、忘れたくはなかった。思い出すたび、泣くのに」

「それでも、忘れたくなかったんだ」



 雨音が強くなった。まるで、その言葉を覆い隠すかのように。

 でも、カエデはそれを押し返すように声を張った。

「だから——今日は、ここで終わりにする」

「この椅子、もう“誰かの”じゃなくてもいいようにする」

「私が座る。明日からここに来るのは、あんたじゃなくて、私だ」

 涙が頬を流れた。でも、雨に混じって、それは誰にも見えなかった。

「ちゃんと覚えてる。忘れない。でも、それでも、前を向く」



 やがて、雨が少しだけ弱まった。

 カエデは立ち上がって、椅子の背もたれに手をかけた。

「じゃあね。また、話しかけるかもだけど……そのときは、適当に聞き流して」

 軽く笑って、カエデは屋上をあとにした。

 折れたアンテナはまだそこにあった。

 だけど、空は少しだけ明るくなっていた。


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