【三題噺】君が春を忘れても

本日の三題:桜のトンネル、返せなかった本、最後の登校日


 春の終わりは、いつも少しさびしい。

 卒業式から三週間後の午後、ソウマはひとりで高校に来ていた。

 忘れ物を取りに行くだけだった。教室に置きっぱなしのノートと、机の奥に差し込んだままだった文芸部の作品集。もう誰もいないはずの校舎は、どこか時間の流れが止まっているようで、足音だけがやけに響いた。

 用事を終えた帰り道。昇降口を出て、校舎裏の小道に差しかかったとき、ふと足が止まる。

 そこには、満開の桜のトンネルが広がっていた。

 風が吹けば、花びらが雨のように降り注ぎ、地面には薄桃色の絨毯ができていた。

 ——この景色を、彼女は好きだと言っていた。

 文芸部の先輩、ミナミ。

 部室の窓際で、小説を読むのが好きな人だった。

 卒業と同時に遠くの街へ引っ越したと聞いたきり、連絡は取っていない。

 それが、いいのか悪いのかも、わからないまま春が過ぎていた。

 桜のトンネルの途中、ベンチの上に一冊の本が置かれていた。

 それは、見覚えのある装丁だった。

 ——あのとき、借りたままになっていた小説。

 『海と眠る町』

 ミナミが「大切な本だから、返してね」と笑いながら貸してくれた本。

 結局、返すタイミングを逃したまま、卒業の日が来てしまった。

 けれど今、目の前にある。

 桜の下、まるで誰かが“置いていった”かのように。



 本を手に取り、ページをめくると、しおりが一枚挟まっていた。

 そこには、小さな文字でこう書かれていた。

『最後の登校日、ちゃんと来るって思ってたよ。』

『ソウマは、本を返しに来る人だから。』

 胸が、きゅっとなった。

 会いたかった。けれど、どうせもう会えないと、自分に言い訳していた。

 ミナミは、わかっていたのだ。自分が、この日ここに来ることを。



 ベンチに腰を下ろして、風に舞う花びらを見上げる。

 時間が、少し巻き戻った気がした。

 ふと、誰かの足音が聞こえた。

 振り返ると、そこにミナミが立っていた。

 制服ではなく、見慣れない春色のワンピース。

 「……来てくれて、ありがと」

 彼女は、変わらない笑顔でそう言った。

 「なんで、ここに?」

 「春が、まだ終わってなかったから」

 それだけを言って、ミナミはベンチの隣に座った。

 「本、読んだ?」

 「うん。すごく、よかった。最後のページで、泣いた」

 「でしょ。あれ、わたしも読んだとき泣いたもん」

 しばらく、ふたりで並んで座った。

 やがて、ミナミが小さく呟いた。

 「わたしね、ほんとはこの町が大嫌いだった。ずっと、出たくてしかたなかった。でも、ソウマと会ってから……少しだけ、残りたくなったんだ」

 「……なんで言わなかったの」

 「言ったら、泣いちゃいそうだったから」

 ソウマは何も言えなかった。

 でも、言葉の代わりにそっと彼女の手を握った。

 指先が、少しだけ震えていた。

 そして——

 ミナミは立ち上がり、桜のトンネルの奥へと歩き出す。

 「またね、ソウマ」

 そう言って振り返った笑顔が、風に溶けるようにかき消えていく。

 花びらが視界を覆い、気づけば、そこには誰もいなかった。



 夢だったのかもしれない。

 けれど、手元にはちゃんと本がある。

 しおりも、挟まれたままだ。

 「……またね」

 桜のトンネルを抜けて、ソウマはゆっくりと歩き出した。

 今日が、自分にとっての——

 本当の最後の登校日だったのだと思った。


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