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珍しく憂いを帯びた三ツ目の表情に気を取られそうになる。


「三ツ目さんも、北見さんたちがどうなったか気になる?」

「気になるというか、あの二人から部屋とか服とか借りてるからいろいろ気持ち悪いなって」

「まだ自分の家帰ってなかったの!?」

「帰れるわけないだろ。電気つけてもカーテン開けても暗いんだから。軍用懐中電灯も効かないし。大家に相談したいけど原状回復費用いくら請求されるか考えただけでも怖すぎて無理だし、真剣に困ってんだよね」

「でも配達物を勝手に持ち帰って部屋で開けたの三ツ目さんだから……大変だね。忙しいね」

「駐車に集中してるからって返事が雑すぎるよ」

「そうかな」


聞いたところで、自分の車がやや斜めに停まっていることが気になった。このまま停めてもよかったのだが、どうしても正面を向いていないことが許せない。

もう一度アクセルを踏んでわずかに前進。そしてブレーキペダルに足を乗せ替えた、その瞬間、両手を上げた男が目の前に躍り出てきた。


「わ――おッ、っぶな!」


靴底でペダルを思い切り踏み込んでいた。

急停車の反動で、隣の三ツ目の体が軽く弾んで前のめりになる。とっさにその体の前に腕を伸ばしていたが、彼がいつもと変わらず無表情なのを見てそそくさと手を引っ込めた。心配して損した。

手持ち無沙汰な片手をとりあえずハンドルに添える。硬く滑らかな感触が嫌でも現実に引き戻してきた。たったいま飛び出してきた男はどうなったのだろうなんて――考えるまでもない。


「ひいちゃったかも……」

「今の『わお!』って素?」

「三ツ目さんうるさい」

「…………」

「こういう時って車側が加害者?」

「…………」

「だよね、分かってる、そうだよね」

「…………」

「とりあえず共犯になってたらごめん!」

「冗談きついすわ」

「だよね」


はあ、とため息をついてエンジンを切った。一旦冷静になろうと、ハンドルを握る手に額を押し付けて研修中に教わったことやら緊急時のマニュアルやらを思い出してみた。しかし考えがまとまらない。


三ツ目はワカバに代わって車から降りようとしていた。シートベルトを外す音が車内に響く。見れば彼はダッシュボードに取り付けられたデジタルタコグラフを操作して「休憩」に切り替えている。その後、運転席で青ざめているワカバをよそに、躊躇なくドアを開けていた。


実際のところ、三ツ目はワカバの同期社員ではない。


勤続年数を見れば先輩の部類に当てはまるのだが、所属支店をたらい回しにされたうえに、これ以上降格のしようがないほどの部署に送られた結果、偶然同時期入社のワカバと並ぶことになった。


「これが経験の差……」


虚しい響きのセリフが口から洩れる。三ツ目が降りて空になった助手席を意味もなく眺めた。

落ち込む間もなく、運転席側のドアがノックされる。

足が竦んでしまって立ち上がれそうにもなかったが、ドアロックだけでも解除した。

半分だけ開かれたドアの先で立っていたのは、神妙な顔をした三ツ目。ワカバの視線は、三ツ目が着ているグレージュ色の制服の腹回りに下りていく。何かの液体で湿っていることだけは薄暗闇の中でもはっきりと見てとれる。顔が強張っていくのを感じた。目元と口元の筋肉が痺れたように動かせなくて、声が出せない。


「ワカバちゃん。大変残念ながら、」

「どうも!」


芝居臭く目線も声も落とした三ツ目の体が突き飛ばされる。どこかに追いやられた三ツ目に代わって登場したのは、ドライバー派遣会社の制服を着た男。

つい先ほどワカバが運転する車の前に飛び出してきた男だった。


「生きてた!?」


ハンドルから身を起こしたワカバの目が見開かれるなり、彼は怯えた様子で「わっ、わ、すみません驚かせちゃったみたいで」と声を震わせて両手を挙げる。

誤解を解くためにワカバが「武器持ってませんよ」と同じように両手を開いて見せれば「あ、よかった」と彼は社名が刺繍されたキャップを脱いでそれで顔をぬぐっていた。

豪快な拭き方だ。


「すいません、ワカバさんの車に俺のビールがかかっちゃったみたいで。でももう拭いたんで!はい!」


男は顔に続いて自分の髪を拭いていたキャップを軽く振ってみせた。甘くフルーティな香りが漂ってくる。

ワカバはそれどころではなくて「生きてたんですね?」と自分が理解できるところまで話を戻していた。


「生きてた?」

「失礼ですが生きてますよね?」

「あ、俺か。それがですね、三ツ目に言われた通りここで荷物と一緒にあなたたちを待ってたら、ワカバさんの運転する車が向こうから走ってきたから、つい興奮して飛び出したくなっちゃって」

「要約してください」

「あ、はい。つまり、車にぶつかったけど今のところ生きてます」


彼の言葉を聞いたワカバは「だぁー」と呻いてから再びハンドルに突っ伏した。骨だけを残してずるずるに溶けてしまいたいほどの疲労に襲われていた。


「なんかすみません、でも長いこと待ってたんで助かったと思った瞬間もう嬉しくて嬉しくて。だって配達途中なのに車のタイヤが4つも同時に脱輪しちゃうなんて、ちゃんちゃらおかしい話ですよ。とにかく三ツ目とワカバさんがこのエリアを通らなかったら、俺が担当してた荷物、納期がとんでもなく遅れるところでした。いやでももう遅れてることは事実なんですけど」

「遅れてるって、どのくらい?」


安全・丁寧・信頼を売り文句とする我が社の腕の見せどころだ。しかし男の答えは。


「だいぶ。かなり。いわゆる1ヶ月程度は遅れてるみたいですね」


安全・丁寧・信頼は手遅れらしい。ワカバは車の鍵をそっと引き抜いた。急ぐ必要はたった今なくなった。



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