3

「……、はぁ……」


 一体なんだったのか。

 手のひらで顔を覆って軽く息を吐き出した。


 指先を動かして、長い硬直状態から抜け出して体を起こす。机の下から這い出ると、傍でひっくり返っていた机の脚の先端が髪をかすめた。

 床に放置されているバッグをどかしてひとまず壁に寄りかかれば、荒れた教室の全体像が嫌でも目に入る。廊下を覆っていた窓ガラスはすべて粉砕されているようで、激しい雨音が教室の中まで聞こえてくるほどだった。


 さきほどの男女の会話には予知能力者という言葉が含まれていた。存在するのか、疑わしさに眉をひそめてしまう。なにより彼女らは能力者なのだろうか。現実味がなくて、まるで頭が回らない。ため息を吐いて外を見れば、雨はまだ降り続けていた。

 早く外に出なければ。

 そう思う一方で、少し時間を置かなければ先ほどの二人と鉢合わせてしまうだろうとも思った。それでも、いつまでもこの場にとどまるわけにもいかない。痺れる手を窓ガラスにつけて立ち上がった。


「……、……あそこは物理室……」


 窓の外をいくつもの水滴が滑っている。薄暗く滲んだ景色のなかで、白い光が浮かび上がっていた。他のクラスの授業が行われていたのかもしれない。光を眺めた綾は逃げ出す生徒を想像して戦慄した。いつから都市はここまで治安が悪くなったのだろう。

 今朝、結衣が見せてきた例の記事を頭に思い浮かべる。能力者は都市伝説レベルの存在だと思っていたが、実在するのだろうか。目の当たりにしたというのにどうしても現実のものと思えない。


 ふと、床の一点が光っていることに気が付いて目を凝らした。誰かの携帯の画面が光っている。


 おそるおそる歩み寄って目を細めた。通知を受け取り続けているのか、画面は暗くなることなく煌々と光っている。それを見た綾は思い出したように自分の携帯を取り出した。


 画面には着信通知が並んでいて、発信者は全て中島結衣だった。


「……」


 安全とは言い切れないこの状況で悠長にかけ直すわけにもいかない。わけの分からなさに疲れて、携帯を持った手をぐったりと下ろした。


 これ以上気持ちの悪い場所にいても仕方がない。そう思ってもなかなか動く気になれなくて、のろのろとした動きで携帯をスカートにしまった。


 廊下からは雨と風が吹き込んでくる音だけが聞こえてくる。それだけだった。他の物音は何もない。


 それなら今しかないだろう。


 顔を上げたとき、驚きのあまり声を失くした。

 先ほどの女でも、水崎と呼ばれた男でもない。別の男が怠そうな様子で戸に寄り掛かって、綾を見ていた。


 綾の口からは思わず震えた息が溢れ出す。


 一体、いつからそこにいたのだろう。必死に頭を働かせても考えはまとまらない。男の気配は微塵も感じられなかった。


 急に現れた彼に声をあげることすらできない綾だったが、男の黒い瞳も全く同じように大きく見開かれていた。今の校舎に人の気配はない。だからこそ、綾がこの場に残っていたことにひどく驚いているようだった。しばらく続いたお互いの沈黙の長さがそれを物語っている。


「……入っても?」


 先に口を開いたのは男のほうだった。

 教室に残っているのが綾だけだと確認した彼は、ささやくような声で綾にたずねる。


「あ、はい……ど、どうぞ……」


 よくない。

 それなのに頷いてしまったのはなぜなのか。


 男は促されるままに教室に足を踏み入れてくる。まったく意図が読めない。

 綾はしばらく見入っていたが、ふと我に返った。もし彼が能力者だとしたら今の状況は非常にまずいのでは。ベランダを振り返ってから男に目をやれば、彼は、後ずさろうとしているこちらを凝視していた。まさか目が合うとは思っていなくて、容赦なく突き刺さる視線に綾の体は固まる。


 理由はないが、直感で彼が能力者であるような気がしていた。


 背中を見せた途端に襲われることを想像して喉を鳴らす。


 一瞬の隙を見て、教室後方のドアが開いていることを確認した。教室を飛び出してそのまま全速力で廊下を走って階段を駆け下りることができれば、学校の外へ逃げることができるかもしれない。


「もしかして、」


 男が何か言いかけた。

 しかし綾はその場から駆け出していた。


 彼の背後の廊下を目指して、ほとんど前のめりになって走り出す。だが数歩踏み込んだところで何かが足首に絡み付いた。


「ひっ! なに?!」


 反射的に足元を見れば、邪魔に思って動かしたはずのショルダーバッグのベルトが足に絡みついていた。

 頭が真っ白になる。

 男の気配を近くに感じた綾はとっさにバッグを引きずってでも廊下に出ようとした。が、乱暴に足を振り払った途端に体はよろめいて。


「あっうわッ、!」


 前に突き出した手も虚しく、そのまま男を巻き込んで床に倒れた。


 背中か、腰か、頭。あるいはそれらすべてを床に打ち付けたのだろうか。それまで気が抜けた表情で綾を眺めていた彼だったが、今では顔を覆って悶絶している。


 一方で綾は完全に血の気を失っていた。下手に動くこともできない。指先だけはかろうじて動かすこともできたが、それ以外は動くことすら躊躇われた。目線すら男から外せない。


「あの」

「……」

「ご、ごめんなさ、」

「…………」

「あの?! その! わざとじゃなくて! 足が引っかかって、だからあの、とにかくわざとじゃないんです?!」


 不安定に揺れる綾の声に耳を貸すようにして、男は顔を覆っていた手を退ける。強い眼差しで見つめ返されて、綾がもう一度謝ろうかと思った矢先に「強引というか」と、男は唐突に話し始めた。そして彼は自分の胸に手をついている綾に対して言った。


「積極的だな、女子高生」


 彼が笑う。対して眉を寄せた綾は静かに手を下ろした。

 とんでもない誤解だった。





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