マグリット・コンフューズ
文壱文(ふーみん)
本編
まだ寒さの残る二月の日曜日。梅が花を咲かせるには気温は低く、からりと乾いた風が吹く。街角の喫茶店は昔からの味で地元民から愛されている。店のドアには「OPEN」の文字が掛かっていた。十一時を回った頃、黒帽子の男が店を訪れた。暗色のコートを身に着けた男は早速、ホットコーヒーとたまごサンドを注文する。
「トマトとレタスもつけてください」
「お代は七二〇円になります」
男は懐から財布を取り出すと、小銭を揃えて店主へ手渡した。
「少々お待ちください」
店主はゴム手袋を着用し、手袋の裾を指でぴんと張る。グー、パーと指を動かすと、店主はコーヒー豆を品種ごとにブレンドしていく。
ブラジル、グアテマラ、モカ、キリマンジャロ。それぞれ決まった分量でミルの中に入れる。レバーを軽く摘み、一回転、二回転、三回転。しばらくの間、レバーを回し続けた。豆が破砕されていく度、芳醇な味わいが店内に舞う。熱湯を適度に冷まし、温めたカップの上でドリップする。黒い液滴がカップの中に落ちてゆく。
マヨネーズと胡椒で和えたゆで卵、スライスしたトマト、レタスを準備する。それらをトーストに挟み、四角い皿の上に盛り付けた。
「お待たせしました。ホットコーヒーとたまごサンドになります」
「ありがとうございます。……ところで、この店は人生相談を聞いてくれると耳にしたのですが」
帽子で隠れた男の顔色は窺えないが、少なくとも声色はか細い。
「ええ。人の話を聞くのが私の趣味なもので」
「そうでしたか。なら是非とも相談させてください」
男の声はワントーン上がる。コーヒーカップを片手に啜りつつ、身の上を話し始めた。
「私には三歳下の弟がいるのですが、恥ずかしながら喧嘩をしてしまいまして」
「きっかけは何だったのですか?」
店主の質問にコーヒーをひと口、嚥下する。黒帽子をテーブル横に置くと、ようやく口を開いた。
「きっかけは私の大切にしていた野球ボールでした。好きな選手のサイン入りでした。それを弟は紛失してしまったみたいでして」
「それで喧嘩をしてしまったのですね?」
男は神妙な面持ちで答える。
「正直なところ、弟を許せないんです。ただ、三月末からひとり暮らしをする予定なので、せめて仲直りだけでもしたいと思って」
私はどうしたら良いのでしょうか、と男は話す。仲直りするためには弟を許さなければならない。弟を許さなければ清々しく出立できない。しかし現状弟を許すことは出来ない。そのジレンマが男を悩ませていた。
「ここはひとつ、順に思い浮かべてみましょう」
店主は手をぱちりと合わせて提案する。老眼鏡を隔て、男の双眸を確認した。もしも既に答えが出ているならば、話は早いだろう。
「それではまず、弟を許して自立した場合を想像してみましょうか」
男は想像を巡らせる。
「次に決別したまま、ひとりになった時のことを考えてみてください。……今、貴方は何を思い浮かべましたか?」
男は実家とやり取りが出来なくなるかもしれないと話す。
「そうですね。それなら自ずと、答えは出ているのではないですか?」
「ありがとうございます。お陰でこの気持ちの落とし所が見えました」
丁度、サンドイッチも食べ終えた様子。男はコーヒーカップに口をつける。最後の一滴までコーヒーを飲み干すと目深に帽子を被り、店を出て行った。
店主はカランと閉まるドアの向こうを眺めながら一言、口に出す。
「ご来店、ありがとうございました」
気温は低いが日差しに温もりを感じ始める二月の中旬。黒帽子の男は決まって日曜日に来店した。
「こんにちは」
「ご来店ありがとうございます。本日は何を注文されていきますか?」
店主が注文を聞くと男はメニュー表を眺め、しばらくするとホットコーヒーとたまごサンドを注文する。
「お代は七二〇円になります。しばらくお待ちください」
男は一万円札一枚を店主へと渡す。それから九枚の千円札と釣り銭を店主は返却した。
「あ、トマトとレタスもお願いします」
店主は視線だけで頷くと、早速作り始める。皿に綺麗に盛り付けると、男のもとへ運ぶ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
皿を受け取ると机の上に置く。まずコーヒーを一口含むと、溜め息をついた。男には悩み事があるようだ。帽子は深く被ったまま、もう一度溜め息をつく。
「浮かない様子ですね。どうされました?」
「最近、兄弟喧嘩がありまして。私には二つ上の兄がいるのですが、何か思うことがあったみたいで」
男の口からぼそぼそと飛び出す憂い。最近兄の口数が少ないと男は話す。
「兄は優しくて家族思いなのですが、頑固な一面もあって。そうなると、譲らないのです」
何か心残りがあるに違いないと男は続ける。
「その心残りというものに、貴方は心当たりがありますか?」
「……どうでしょう。些細なことなら幾つかあると思いますが」
左上の壁に掛けられた額縁に視線を落として、男は答えた。店主は少しの間、顎に手を当てて唸る。間の抜けた息がひゅうと音を立てた。
「これは失礼」
「大丈夫ですよ、わざわざ考えて下さってありがとうございます」
「……そうですね。もし私が貴方の立場なら、ちょっとしたプレゼントをすると思います」
「プレゼントを?」
首を傾げる男。店主は頷くと、真心だと答える。
「日頃の感謝でも何でも、理由は何でも良いです。何か贈り物をすることが大事なのです」
「贈り物ですか。確かに……良いかもしれませんね」
男の目は泳ぐ。逡巡する様子に店主は息を吐き出した。
「もう一度言います。大切なのは真心です。ゆめゆめお忘れなく」
店主の力説に男は頷くと、残りのコーヒーを一度に飲み干す。カチャリと音を立ててカップを置くと、すぐに席を立つ。
「ありがとうございます。ちょっとしたプレゼントでも、買って帰ろうと思います」
男の軽快な口調と足取りに、店主の表情も和らいでいた。
そのまた翌週。黒帽子の男は日曜日に店を訪れた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。本日は何をご注文されますか?」
「それじゃあ、ホットコーヒーとアップルパイをお願いします」
男はメニュー表をじっくりと確認して答える。店主はにこり、と微笑む。
「八四〇円になります」
男は千円札一枚で支払いを済ませると席につく。黒帽子をテーブルの上に置き、溜め息をついた。
「お客さん、また悩み事ですか?」
「また? いえ、私は初めてここに来たのですが」
「……おや、それは失礼しました。貴方に良く似た黒帽子の方が最近、うちによく来て下さっているのですよ。それに加えて、いつも悩み事を抱えているようで」
悩み事を聞く分には楽しくもあると店主は苦笑する。
「実は丁度、私にも悩み事があるのです。店主さんがもしお手隙なら、聞いてもらえませんか?」
「……ええ、勿論ですよ」
男はコーヒーカップを口元へ運び、軽く啜る。芳醇な香りと程良い苦味と酸味。男の顔は綻んでいた。カップをテーブルの上に置く。次に男はアップルパイをフォークでつついた。
「とても、美味しいです」
「それは嬉しいお言葉ですね。それでお客さん、悩み事というのは?」
「実は――」
男の悩みというのは兄弟喧嘩だった。男の話によれば、兄の大切にしていた野球ボールを失くしてしまったのだという。
それから兄と話すことが少なくなってしまったと話した。
「お客さん……失礼ですが、ご兄弟の人数は?」
「ええと、私の上に兄が二人。一つ上と三つ上の兄がいます」
「そうでしたか」
店主は思案する。頭の中には一枚の絵画が浮かび上がっていた。
「一つお尋ねします。ルネ・マグリットという近代画家をご存知ですか?」
男は首を横に振る。その様子に店主は頷くと、ある絵画について説明を始めた。
「ルネ・マグリットの描いた『ゴルコンダ』という絵画を一度、スマートフォンで調べて頂けますか?」
「は、はぁ」
言われるままにインターネットで検索をする。画面に表示された絵は街中を浮遊する複数人の男。その誰もが黒スーツ、黒帽子を身につけていた。
「これは……」
店主は男の傍ら、テーブルに置かれた黒帽子に目を向ける。すると、絵画の詳細について触れた。
「この絵画に映っている男たちは全員、別人だと言われています。どの男も顔が違うのです」
店主の話を聞いて男は目を見開く。
「これを描いたマグリットはそこにメッセージを残したのかもしれませんね」
帽子の下を確認するまでは誰か分からない。逆に言えば全くの別人が同じ行動をとっているとも受けとれる。
「そうでしたか。兄達も私と同じく、ここに来ていたのですね」
店主は笑顔で肯定すると、一度カウンターを離れた。
数分して戻ってきた店主の手にはケーキがあった。
「お待たせしました、青林檎のシブーストです。試作品ですので良ければ試食をお願いします」
ブリュレにも似た、青林檎とシナモンの香るケーキ。カラメルが綺麗な焼き色をつけている。
「どうしてこれを私に?」
「貴方に感想を頂きたいと思ったからです」
男は喉を鳴らす。やがて恐る恐るシブーストに手をつけた。カラメルとクリーム、林檎とスポンジの層をフォークで切り出すと口元へ運ぶ。ゆっくりと咀嚼し嚥下する。男は目を見開いた。ほろ苦いカラメルと青林檎の爽やかな風味、シナモンの辛さがクリームの甘みと見事に層を形成している。
「……美味しいです。とても」
「それは良かった。私とて『人の子』ですから、貴方の感想が欲しかったのです」
そっと胸を撫で下ろす。店主は優しく微笑んだ。
【出典元】
ルネ・マグリット作『ゴルコンダ』『人の子』
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