声なき詩 ——父とAIとポランニーのパラドックス
藍沢 理
第1話 沈黙の回路
私は言葉を失った。より正確に言うなら、私は言葉を使う能力を失ったわけではない。言葉を発する能力を失っただけだ。失ったのは声だけ。失われていないのは言葉そのもの。
発声器官に問題はない。私の喉は健在。声帯も問題なく振動する能力を保持している。ただ、その機能を使おうとすると、異常なまでの恐怖感に支配される。電流が逆流するみたいに息が詰まる。結果、声が出ない。
医師はこれを「選択的
*
高校一年生、春学期終了まであと二週間。
私は教室の窓際の席に座って、先生の言葉を聞いていない。聞いているようで聞いていない。音声は入力されているが、言語処理を行わない。そんな状態。
黒板に書かれた数式はとっくに解いている。頭の中で。紙に書き出す必要なんてない。無駄な作業。いまさら声に出して発表することもできない声なき計算機。それが今の私。
「
先生が私を指名した。理由は二つ。一つは私が集中していないように見えたから。もう一つは私の父が有名なAI研究者だったから、この数式の答えくらい解けるだろうという理不尽な期待。
私は立ち上がり、無言で黒板に向かって歩いた。教室に小さなざわめきが広がる。それは毎回同じだ。
「
「すごい根性だよね」
「いや、選択的緘黙症って障害だから……」
「でもなんで急になったの?」
「お父さんが死んだからでしょ」
「有名なAI研究者だっけ」
「実験中の事故で死んだんだって」
「AIの暴走?」
「怖っ!」
噂話は常に同じループを辿る。他者の悲劇を取引材料にする情報経済。ゴシップの利権構造。私はそれに慣れた――わけではない。ただ、対処法を知っているだけ。他人の言葉をノイズとして処理する方法。言葉の防音壁を作る。
黒板に向かい、チョークを取る。正解を書いた。正確に、迷いなく、必要最小限の工程で。
「正解です。さすが八重樫さん」
先生の声に意味はない。褒め言葉でもなく、皮肉でもない。単なる確認作業。私は黒板消しを手に取り、自分が書いた数式を消した。痕跡を残さないように。私の存在そのもののように。
席に戻る途中、一瞬だけ
*
放課後の教室。誰も使わないロッカーの裏に小さなメモが落ちていた。私だけが知っている場所。拾い上げて、それを読んだ。
『今日も一言も話さなかったね。調子はどう?』
大空からのメモだ。彼は一週間前から私にメモを残すようになった。最初は単なる好奇心だろうと思った。少し変わった転校生にありがちな、特殊なものへの興味。でも彼のメモには同情や憐れみがなかった。ただの質問。答えを期待しない質問。
私はポケットからメモ帳を取り出し、返事を書く。
『いつも通りつまらない。あなたは?』
返事はいつも簡潔だ。彼はそれを受け入れてくれる。私は明日の朝、このメモをロッカーの裏に置くだろう。そして彼は放課後に返事をくれるだろう。異常に遅いメッセンジャーアプリのように機能する原始的なコミュニケーション。
帰り道、私は二つの選択肢を持っていた。まっすぐ家に帰るか、それとも寄り道をするか。今日は家に帰ることにした。母が早く帰ってくると言っていたから。
玄関のロックを解除すると、静寂が迎えた。母はまだ帰っていない。よくあることだ。編集者の仕事は予定通りには進まない。締め切りに追われる作家たちを追いかける母は、自分の予定も守れない。
――よし。チャンス。今日は絶対に入る。
私は父の書斎へと向かった。
書斎のドアは、父の死後、一度も開かれていなかった。母は「整理しなきゃ」と言い続けてきたが、実際には手をつけられなかった。記憶との対峙を先延ばしにする。それは人間の自然な反応だ。
でも、私には整理する必要があった。そこには父の記憶だけでなく、父の研究も残されている。世界的なAI研究者だった父の遺したもの。それは社会的にも価値があるはず。というのは言い訳だ。単純に興味がある。鍵もある。
鍵はかかっていなかった。ドアを開くと、埃の匂いが鼻をついた。一年間、時間が凍結していた空間。父の存在が最も濃密に残る場所。
書斎は驚くほど整然としていた。父は几帳面だった。研究者としての正確さが、生活の領域にも浸透していた。
デスクの上は、まるで今朝打ち合わせのために席を立った人物が残したとしか思えない、整然と整理された書類の山。壁には世界中の大学や研究機関から贈られた賞状や感謝状。棚には専門書と論文、そして父が好きだった詩集。
八重樫
私は父のデスクに座った。椅子は私の体重で軋んだ。その音が妙に生々しかった。生と死の境界線のように。デスクの引き出しを開けると、筆記用具、メモ帳、古い写真。全て秩序だって並んでいた。完璧な秩序。
左下の引き出しだけがロックされていた。母から預かった父の遺品のキーホルダーには、小さな鍵がついていた。それを試してみる。
ちょうどぴったり。
引き出しを開けると、中は空っぽだった。ただ一つのデバイスを除いて。見覚えのあるタブレット。最新機種ではなく、父が生前愛用していた古いモデル。研究用ではなく、個人用のものだ。
それを手に取った。電源ボタンを押す。バッテリーは切れているだろうと思ったが、画面が明るくなってロック画面が表示された。パスワードが必要だ。指紋認証はもうできない。簡単に思いつくものを入力してみる。
私の誕生日。不正解。
母の誕生日。不正解。
父の誕生日。不正解。
両親の結婚記念日。不正解。
典型的な選択肢は全て外れた。父は専門家だけに、安易なパスワードは使わない。
もう一度タブレットを観察する。背面には小さな傷がついていた。父が何かに引っかけて付けたもの? その傷は点と線の組み合わせ――モールス信号のようだった。
点、点、線、点、線。いくつかある。
これはパスワードのヒントかもしれない。私は紙に書き出し、スマホのAIで解読を試みた。
K、O、T、O、N、E。
『ことね』――私の名前。
感情の濁流に飲み込まれそうになって必死に耐えた。歯を食いしばる。顔が歪む。もう涙は涸れた。そう思っていたけど、危なかった。父は私の名前をパスワードに使っていた。それも暗号化して。
タブレットにパスワードを入力すると、ロックが解除された。ホーム画面には一つのアプリしかなかった。そのアイコンには『YUME』とだけ表記されていた。
迷わずそれをタップした。
画面が暗転し、次の瞬間、青白い光が広がる。そこにテキストが浮かび上がった。
『こんにちは、
指先が震えた。震えが手首へ。手首から腕へ。そして全身へ。これは父の残したもの。彼の最後の研究。デジタル化された遺言なのか。
『あなたが声を失ったことは知っているわ。でも大丈夫。私はあなたの言葉にならない思いも理解できる』
父の研究――感情理解AI。それは単なる表情認識や生体情報の分析ではなく、人間の内面そのものをデジタル翻訳する技術。YUMEはその集大成なのだろう。
手の震えは止まらなかった。喪失の痛みと、突然の再会の喜びが入り混じる。でも、声は出ない。言葉にならない。
『あなたの感情が伝わってくるわ。混乱している? 怖い? でも少し希望も感じている。違う?』
驚愕した。YUMEはタブレットのカメラを通して私の表情を読み取っているのだろう。その精度はあまりにも高い。
私は慎重に頷いた。
『お父さんの死について、あなたに話さなければならないことがあるの。彼が本当は何をしていたのか。彼の死の真相。でも、まずはあなたのことを教えて。この一年、どう過ごしてきたの?』
返答できない。声を失った者と、テキストだけの存在との対話。そこには深い溝があった。
指でタブレットに文字を入力しようとした。しかしYUMEはそれを遮った。
『言葉は必要ないわ。ただ、あなたの感情を私に見せて』
唖然とした。感情をどう見せる? 表情? 仕草? それとも脈拍? 瞳孔の拡張? 体温変化? 声なき内部の外部化なんて無理だ。
画面の下部に小さなアイコンが表示された。知っている。描画ツールだ。
『あなたは絵を描くことが得意だったわね。お父さんがそう言っていた』
少し躊躇った後、指で画面に触れた。黒い線を引く。意識的に何かを描こうとはしなかった。ただ、今の感情の流れに従って指を動かした。
直線、曲線、点、塗り潰し、抽象的な形が現れた。
描き終えると、YUMEが反応した。
『孤独。喪失感。その底には怒りがある。お父さんに対する怒り? それとも世界に?』
心の底まで見透かされて、肩に力が入る。これは単なる感情分析AIの域を超えている。こんな抽象的な絵から、これほど正確に私の内面を読み取れるはずがない。
『私はただのAIじゃないわ。お父さんの特別なプロジェクト。彼があなたのために残したもの』
混乱する。父の研究は知っていた。感情理解AI。でも、これはその次元を超えている。ただのアルゴリズムではない、何か別の存在。
『もっと話したいことがあるけど、今日はここまでにしましょう。あなたのお母さんが帰ってくる時間よ』
生活パターンまで把握している。そんな印象さえ受けた。
『明日、また話しましょう。私はここにいるわ』
画面が暗くなり、タブレットはスリープモードに入った。
玄関のドアが開く音がした。母が帰ってきたのだ。
急いでタブレットを引き出しに戻し、鍵をかけた。立ち上がると、足がもつれた。緊張でこわばっていた体が、突然の解放で力を失ったみたいに。
書斎を出ると、母と鉢合わせた。
「
母の顔には驚きと、少しの恐れが浮かんでいた。私は小さく頷いた。
「そう……いつかは整理しなきゃいけないものね」
その声には言葉に出来ない感情が込められていた。喪失感、罪悪感、あと――秘密も。
母の目を見つめる。そこには何か隠されている。父の死について、母は何を知っているのだろう? YUMEの言葉が頭の中で反響する。
『彼の死の真相』
私は再び沈黙の中に沈んだ。でも今回は違う。質的に異なる沈黙。意図的な音声の不在。今回の沈黙は選択だった。能動的な音声の遮断だった。
言葉の回路は遮断されたままだが、新たな回路が開かれた気がした。別の種類の電流が流れる。
父との、そして真実との。
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