第22話 JC5 新宿

   JC5 新宿


 新宿副都心。

 明治初期までは、村だった。

 同様に、渋谷も、原宿も、キツネやタヌキが出る村だった。村。村。村―。

 やぶや暗がりに足を踏み込まず、おてんとうさまの下で生活をしていれば、キツネやタヌキに化かされることも少ないが、気を抜くと、魑魅ちみ魍魎もうりょうにすべてをはぎ取られる場所、新宿。


 魑魅魍魎の手口は、つねに進化している。

 千葉哲哉が被害にあいかけたのは八年ほど前。引っかかった手法が急増しはじめてから、数年後のことだった。現在勤めている医療ガスの仕事に就いて、二年を過ぎたころのことだ。

 それが、大久保美悠との出会いでもあった。


 新宿西口の中国東北地方の餃子店の半個室で、哲哉は、少し年上の社員とともに、病院関係者を招いて食事会をした。表むきには割り勘の打ち合わせだが、実質、相手にとっての利害関係者である哲哉の会社が支払いを行った。

 病院関係者は、都内で閉院した中規模病院を引き継いだ医療機関の事務方二名であり、会社としては、引き続き、当社の医療機器の使用をお願いします、という意味合いも持っていたのだろう、と、哲哉は思いかえす。

 飲み放題と七品のコースだった。コースに皇帝鍋はついていたが、火鍋も頼んだ。

 食べ応えのある料理に満足したし、招いた相手のひとりが、同じ茨城県出身者だったので、哲哉はすっかり気を許し、「もう一軒いんべ~」、と茨城弁が出たその同郷人に付き合って、酒のはしごをする気になったのだ。

 新宿から、哲哉の暮らす代々木三丁目までは、酔ったとしても這って帰れる距離だった。

「いい店、ありますかね~」

 そう尋ねられて、「店」はなにを意味するのだろうか、風俗やキャバクラだったら、自分は不案内だなぁ、と思った哲哉だったが、相手もどうやら、純粋に飲みたかったようだ。

 彼には先日、一人目の子どもができたらしい。仕事と、夫婦ともども慣れない育児にてんてこまいで息がつまった、と、言っていた。見かねた義母が、これも茨城からやってきて、羽を伸ばして来いと、婿を飲みに送り出してくれたのだという。

 餃子店を出た時にはふたりとももう、かなり酔いがまわっていて、いきおい、歌舞伎町あたりまで行ってみっぺ、みたいなノリになっていた。

 西口から高層ビル群の北側を通り、JR線のガードをくぐって、東口に出る。

「二十四時間、いつでもまっぴかり」

 同郷人はほぼ千鳥足で、そう言った。不夜城かぁ。哲哉はその、滑稽なくらいにビカビカとした夜の新宿の、よどんだ空気を吸いながら思う。

 大学時代から足かけ六年。新宿や歌舞伎町近辺へはなんども来た。ただ、飲むというより、おのぼりさんのように観光気分だった。へえ、都庁、とか、へえぇ、御苑、とか。

 午前中の歌舞伎町裏どおりでは、AV撮影か、と思われる、それっぽい機材をかかえた男三人と、女子ひとりが、そろって雑居ビルへ入っていくのも見た。

 だけど、それだけ。

 だから、ふつうに飲んで、ふつうに帰ると思っていたのだ。


「お店、お探しですか?」

 歌舞伎町を入って少ししたところで哲哉と同郷人は、そう、声をかけられた。無視して通り過ぎようとしたところ、「無料の案内所ありますから、お連れしますよ」、「すぐそこですから」、としつこく言われ、ついていってしまった。

「おふたり様ですか。一時間六千円の店が今、すいてますけど、どうですか」

 飲み代としては、まあ、普通なのかな、と思った。だけれど二十代前半の哲哉は、なにもわかっていなかったのだ。それから、子どもが産まれたばかりの、酔いがまわった同郷人も。

 無料案内所の係員と称する男に連れられて入った店は、らせん階段で二階に上がった、もとはクラブかなにかではなかったかという店構えの、いってみれば、貧相なバーかキャバクラといった感じだった。

「こんにちわぁ。おとなりしつれいしまぁす」

 おしぼりを持った女の子ふたりが、哲哉と同郷人のそれぞれ横に、お尻を滑り込ませてくる。

 あ、こういうんじゃなかったんだけどな。哲哉はここで、すでに後悔しはじめた。店には客が、哲哉の組とあわせて、たった二組しかいない。女の子たちがヒマそうに、突っ立ったままお喋りをしていた。

「じゃ、かんぱ~い!」

 キャストと呼ばれる女の子のひとりが、音頭をとった。

 彼女が飲んでるドリンク、加算されるんだろ? 哲哉は嫌な予感しかしなくて、思い切って尋ねた。

「すみません。そのドリンクって、いくらなんですか?」

 女の子は、あら、いやだー、という芝居がかった態度で、

「ウエルカムの乾杯ドリンクは無料なんですよー」

と、答えた。

 ところが、最初のふたりのほかに、突っ立ってお喋りしていた女の子たちが入れ代わり立ち代わり席に入り、ドリンクを頼んでは飲んでいくのだった。

 同郷人と、ただ飲みながら喋りたかっただけなのに。哲哉が彼の顔を見ると、酔った同郷人は目をとろんとさせて、隣のキャストがつくる水割りを飲んでいる。

 彼との話もそこそこに、一時間経つ前に哲哉は、最後に座った女の子に、勘定をお願いした。そして、彼女が持ってきた黒い伝票バインダーを見て、腰を抜かしそうになった。


 ろ、ろくじゅうさんまん、ごせん、ろっぴゃく、はちじゅうえん!


 いったい、なにをどうすれば、こんな高額請求になるのか。一時間以内、水割りたかだか一、二杯。出てきたつまみは、柿ピー、パイナップルと、チータラだったか? 

 キャストが飲んだ飲み物も、八杯か、そのぐらい。とんでもなく高級な酒が入っていたのだろうか。こちらに、断りもなしに?

 断言できるが、キャストのからだを触ってもいない。セクハラ、モラハラ、していない。

 だとしたら…。

「持ってません」

 そう、哲哉が言うやいなや、店の奥から、見るからにガラの悪そうな男たちが三人出てきて、ふたりを取り囲んだ。

「すみません。この方、帰してくれませんか? 誘ったのはぼくなんで」

 生まれたばかりの子どものいる、本日の接待相手である同郷人を、なんとしても無傷で帰さなければならなかった。とりあえず、財布を開いて、あるだけの現金、三万円少しを男のひとりに手渡す。

「身分証、見せて」

 そう言われるも哲哉は、「この人帰して」、と言い張った。殴られるかと思った。

「お客さんがひとりで払うっていうことなのね?」

「この人、先に帰してください。これじゃ、台無しなんで」

 接待が、と言いそうになり、それもまずいと思った。哲哉は必死になった。男たちと席を離れて、お願いですから彼を帰して、と繰り返した。男のひとりが折れて、同郷人に向かって大声で言った。

「そこまで言うんなら、わかった。あんた、もうひとりのお客さん! 帰っていいよ!」

 もし、自分が外濠にでも浮いて発見されたなら、この同郷人が、起こったことを証言してくれるだろう、と哲哉は腹をくくる。酔った同郷人は、女の子たちに抱えられて、店外に放り出された。

「ATM、行きましょか」

 免許証の記録をとられた哲哉は、クレジットカードなど、その場で支払いのできるものはないと、即金払いを拒否した。これが幸いし、外へ出ることができた。うしろにはひとり、店の男が先の尖った傘を持ってついてくる。

「コンビニ、どっちですかね」

「あっち」

 考えてみれば、その男も間が抜けていた。店は歌舞伎町一番街の北はずれにあり、男が指した方角に、歌舞伎町交番があったのだ。

「交番で、話し合いましょうよ」

「てめえ、なに言ってんだよっ」

 その声を背に、哲哉は交番に駆け込んだ。というか、酔っ払いや遺失物届け出でごった返しているとでもいえる夜の歌舞伎町交番へ、先客をかき分けて、押し入るかたちで助けを求めたのだ。


「警察は介入できないんです」

 そう、目の前の、片えくぼのできる、自分と同じくらいの年齢の女性警察官に言われた。

 救いだったのはその警察官が、申し訳なさそうに言った、ということだった。

 人と人との間の、お金の権利やもめごとに、「民事不介入」というかたちで、警察はかかわることができなかった。

「ええっ?」

「でしょ。お客さん。わかった? わかったなら早く、支払おうよ」

 支払わない! 哲哉は再度、言い張った。だって、おかしいじゃないですか。当初、一時間六千円、という説明だったんですよ。それに、キャストたちが頼んだ飲み物は、ぼくら、なんの説明も受けていないし、なんの許可もしてません。六十数万円というのは、いったいなんの料金なんですか!

 警察官の前では男も手出しはできないだろうと考え、哲哉はまくしたてた。やりとりは一時間半以上続いた。

 この間、交番には、似たような被害で駆け込んできた男たちのグループが二組あったが、そのどちらも、男性警察官に冷たく、といっていい態度で対応され、しぶしぶ料金を払うだろう雰囲気へと傾いていった。

 血を流している男や、スマホを持っているにもかかわらず、場所がわからない外国人観光客、ケンカをしている若い男女などが、ひっきりなしに交番を訪れ、そのたびに女性警察官は、対応にあたるため席を立つ。

 一度は腰かけたパイプ椅子を、他の相談者に譲り、哲哉は、交番の出入り口の横に座り込んだ。

 絶対に払わない!

「そんじゃ、お前の免許証たよりに、請求書、送るからな!」

 二時間近く粘った哲哉に根負けして、店の男は、他の客を相手にしなければならない、といった様子で捨てゼリフを残し、去っていった。

 そのうしろ姿を眺めながら、哲哉は、この先どうなるんだろう、と、思った。

 やくざモンが代々木の、ワンルームマンションへ押しかけて来るんだろうか。手を出されたら傷害事件で警察は動いてくれるんだろうけど。

「弁護士さんに相談するしかないですよ」

 さっきのえくぼの女性警察官が、「お客」が途切れたタイミングで、そう哲哉に声をかけてくれた。少しふっくらとした、可愛い警察官だったけど、天使に見えなかった。

 冷てえ。

 なんだよ、この「被害者」に冷たい世の中は―。


 哲哉のマンションに、請求書が届くことはなかった。

 検索をかけてみたら、あの日からほどなくして、当該店舗は摘発をうけたようだった。

 あの時のことを美悠と話すたびに、少し切なくなってしまう。

 美悠は笑う。

 払わないって粘る人たちは結構いたけれど、あたしと同じくらいの年なのに、あれだけ粘ってたから、代々木で会ったときも、あ、なんか覚えてるなって、なったんだ、と美悠は言った。

「あたしあのころ、地域課としてすんごいとこに当たっちゃったなって。てっちゃんのケースは、週単位にすると結構な件数にのぼってたんだよ」

 それであのあと、「ぼったくり」に関して取り締まりが強化されて、地域交番での対応が格段に向上したのだという。

 超かっこわるくて情けない出会いかただった。

 だから、美悠に出会えたとしても、ぼったくりには二度とあいたくない、と、哲哉は切なくなるのだ。

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