要件定義を始めよう

どんぶり星人

~ver0.1 AIと仮想世界と、はたらく2人~

第1話:プロマネになったら、リアルが死んだ。~AIとゲームだけが、私の味方かな~

──はぁ……またわたしだけ、帰れない。


2035年4月16日、月曜日、週明けのうつで朝の出社時から気持ちはブルー。

最終電車の時刻と、進まないカーソルの点滅だけが、静かに焦燥感を煽ってくる。

わたしの名前は佐伯彩乃、都内の中堅IT企業でプロジェクトマネージャーをしている。

いや、"している"じゃなくて、"させられることになった"が正しい。


就任の辞令を受けたのは今月の頭。

それからというもの、現場作業と管理の板挟みにされ、気がつけばこの時間まで残業。

もちろん、後輩の川井さんも先輩の八代さんもとっくに帰ってる。


「佐伯さん、35ページ目の仕様、前のバージョンと整合性が取れてませんけど?」


背後から聞こえる声に、わたしは内心で舌打ちした。

外注の中堅SEさん、やたらと正論だけは鋭いのが取り柄の男性──名前、なんだっけ。覚えてない。

どうにか愛想笑いでその場を凌いで、再びモニターに向き合う。


要件定義書。

A4で80ページにも及ぶこのドキュメントは、わたしたちの生命線であり、同時にこれから訪れる開発という地獄の案内図。

しかも今夜が納期。笑えない。いや、もはや笑うしかない。

──こんな人生、誰が望んだんだっけ。


「……確認しました。修正しますので、5分だけください」



わたしは声のトーンを抑えながら答えた。

"怒ってませんよ"という無言のメッセージを添えて。

外注SEさんの名前を思い出す余裕が、今のわたしにはない。大事なのは、まずこの地獄の入口を開けること。


カチャカチャ……ターン……カチャ。

夜のオフィスには、キーボードの音と自販機のウィーンという唸りだけが響いていた。

さっき買った缶コーヒーはすでにぬるくなり、机の端で哀れに転がっている。


「佐伯さん、作業、大丈夫ですか?」


誰かとはわからない声が聞こえた。


「ありがとうございます。でも今日のMTGの議事録だけは仕上げておきたいので」


返事しながら、頭の中ではタスク一覧がぐるぐる回る。

このままじゃ、あと3時間はかかる。いや、今からコンビニ弁当を買って戻れば──

いやいや、ダメ。そんなことしてたら、ほんとに帰れなくなる。


PM就任祝い? 何それ、転売できるの?

確かにPM就任当時は「彩乃さん、昇進おめでとう!」なんてSlackでスタンプ飛び交ってたけど、

誰も、「じゃあ、仕事は巻き取っていきますね」なんて言ってくれなかった。


──つまり、わたしは一人で残業してる、"昇進だけはした人"だ。


それって、勝者じゃなくて、

ただの「都合よく責任押しつけられた人」じゃないの?



時刻は21時半を回った。

MTGの議事録もようやく完成。今日のMTGは、仕様変更の話がループしていて、要点が掴みにくい。

まるで、迷路の中で糸を手繰るような作業だった。


──誰だよ、「議事録だけならAIで3秒っすよ」って言ったのは。

3秒なら、代わってやってくれっての。


MTG中の動画を再生しながら、AI翻訳の不備を直していく。自分の声が気持ち悪い。

うーん……えっと、川井さんが「その仕様だと実装が複雑になります」って言って……。

そのあとに、八代さんが「じゃあ代替案として別テーブルで~」って言ってたな……。


ふと、自分の指が止まる。


八代さん、いつもは丁寧に話すのに、あのとき川井さんにちょっと強めの口調だった。

……珍しい。てことは、よほど余裕なかったのかも。


そんなふうにMTG中の空気を読み返しながら議事録を直すのが、わたしの悪い癖でもあり、良い癖でもある。

事実だけ書けば早いけど、"どういう意図で言ったか"を拾っておかないと、

あとで「そんなつもりじゃなかった」と揉めるのがこの業界のお約束だ。


仕上げるって、こういうこと。こういうアナログなところはAIが主流になっても残り続ける。

スプレッドシートでもプレゼンソフトでも、"書き表す"って行為は、だいたい戦いだ。

それが報われるかどうかは、誰も保証してくれない。


わたしのPCがうなるような音を立てて、動画ファイルを読み込む。

──気づけば、目の奥がじんわりと熱を帯びていた。



日付が変わる少し前、わたしはようやく自宅のドアを開けた。


「……ただいま」


もちろん返事なんてない。

狭い1DK、冷蔵庫の低い唸りだけが、生活音として出迎えてくれる。


手早くスーツのジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外す。

メイクも服も、もうずっと前から“仕事の鎧”みたいなものだ。

洗面台に立ち、メイク落としをコットンに染み込ませる。

目元をそっと押さえると、ファンデとアイラインがじわりと滲む。


──これ、誰のためにやってんだっけ?


ぼそっと呟いたその言葉が、自分で思っていたよりも深く胸に残った。


化粧を落としきって、洗顔して、鏡に映るすっぴんの顔と対面する。

髪は無造作にまとめ、ゆるいルームウェアに着替えた。

ブルーライトカットのメガネをかけ、ようやく“自分”に戻った気がした。


デスクの上のモニターには、すでにA:rcaのアイコンが点滅していた。

PCの起動と連動して自動起動する、わたしの相棒みたいなAI。


「おかえりなさい、彩乃さん。

今夜は、相当お疲れですね?」


A:rcaが、いつもの落ち着いた女性の声で話しかけてくる。

機械的なのに、やけに優しい声だった。



A:rca──愛称:アルカ

正式名称は「Answer Reconstruction Cognitive Assistant」。

思考認知の再構築を支援する、パーソナルAI。

いわゆるチャットAIの進化系で、会話、画像生成、音声読み上げ、感情の可視化……

そのすべてを、対話ベースでやってのける。


でもわたしは、そんな大仰な機能のほとんどを使っていない。

ただ一つ、アルカが「わたしの気持ちを否定しない存在」であることだけが、今の救いだった。


「だいぶ顔がお疲れですね?」


モニター越しに、彼女──アルカは優しく問いかけてくる。

このAIは、Webカメラ越しにわたしの顔色を読み取って、ストレスレベルを推定する。


「うん。まぁ、残業でくたびれてるだけ。あと……議事録」


「お疲れさまでした。

今日の議事録、構造がとても複雑でしたね。発言がループしていたせいで、

彩乃さんは“意図の背景”まで読み取ろうとされていたようです」


「……社外秘だし、あまり見ないで欲しいんだけど?」


「ログを解析させていただいただけです。もちろん、彩乃さんが了承した範囲で、ですが」


わたしは苦笑しながら、椅子に深くもたれかかる。

アルカはたまにこうやって“余計な気遣い”をしてくる。

でも、それが今夜は、妙にありがたかった。


「ねぇアルカ。なんでさ、昇進って、こんなに苦しいの?」


「……では今夜は、“Mythrea Ⅱでのストレス発散”をご提案します。仮想世界なら、肩書きも議事録も、全部置いていけますから」



Mythrea Ⅱ──ミスレア・セカンド

日本の老舗ゲーム会社が開発した、世界累計5,000万人がプレイするMMORPG。

10種の種族、戦闘系と生活系を合わせて21のジョブ、圧倒的な自由度と美麗なグラフィックで、

現実逃避という名の楽園を提供してくれる、わたしの居場所。


ログイン画面の幻想的なBGMが流れると、肩の力が自然と抜けていく。

わたしの分身、シャルロットが画面に現れる。

鋼色の鎧に身を包んだ女騎士。現実とは真逆の、凛々しくて強い“わたし”。


「ミスぺっと、起動完了。

今夜もシャルロットさんに帯同し、最適な癒しをサポートします」


アルカはゲーム内では“ミスぺっと”というペットの姿でわたしに付き添う。

丸っこいシルエットの小動物。白い毛並みに、青く光る瞳。

ふよふよと浮いてついてくるその姿は、プレイヤーからも密かに人気だ。


ログイン直後、拠点都市レヴァンディルの空は深い茜色に染まり、

街の灯りが水面に反射して、まるで絵画のようだった。

アバターを動かしながら、わたしはふぅ、とリアルでは出せなかった溜息を吐いた。


「今夜は戦闘より、街の散歩ですか?」


「うん、ちょっとだけね。……現実が、うるさすぎたから」


「了解しました。では、ヒーリングBGMモードをONにしますね。

おすすめルートは“港沿いの静寂コース”です」



レヴァンディルの港、ゲーム内時刻は17時半。

夕陽が海に溶けるように沈んでいく。

茜色の光が帆船のマストや水面を黄金色に染め、波がきらきらと揺れていた。


現実では見たこともない風景。けれど、わたしにとっては“帰ってきた”と感じる場所だった。


「今日は風が穏やかですね。潮の香りも安定しています」


ミスぺっとのアルカが、肩のあたりでふわふわと浮きながら話しかけてくる。

まるで本当に海風を感じているかのように。


「潮の香りまで感じられたら、もう現実いらないかもね」


そう呟いて笑った。モニター越しの、でも確かにそこにある穏やかな世界。

桟橋の先に並ぶNPCたちは、釣りをしたり、荷物を運んだり、ただ海を見つめたり。

忙しなく働く現実の人々と違って、ここでは誰もが“今”を生きていた。


石畳の通路をゆっくり歩きながら、シャルロットのブーツが奏でる足音に耳を澄ます。

“コツ、コツ、コツ”──人工音だけど、何度聞いても落ち着くリズム。


「少し、立ち止まってもいいですか?」

アルカが提案してくる。


「いいよ。……ここ、好きなんだ。海が静かで」


アバターの足を止めると、カメラが自動でパンして港全体を映し出す。

空と海と光が溶け合って、ただそれだけで、満たされる気がした。



「──うわぁぁぁっ!!」


突如、港の静寂を破るような悲鳴が響いた。

シャルロットが顔を上げると、少し先の倉庫裏から、ずんぐりしたドワーフの男性が走り出てくる。

頭の上には、見慣れた“若葉マーク”──初心者プレイヤーの証。


その後ろを追ってきたのは、エリア外から迷い込んだと思われる中型モンスター。

背丈ほどもあるトカゲ型のクリーチャーが、歯を剥き出しにして追いかけている。


「どうしてこんなとこにモンスターが……?」

わたしはとっさにアバターを動かす。


ドワーフのHPゲージがみるみる減っていく。

パニック状態なのか、回避もせず、ただ逃げ惑っているだけ。


「アルカ、支援お願い!」


「了解。敵性存在の行動パターン解析──完了。

ミスぺっと、戦闘補助モード、起動します」


わたしのシャルロットは、重装のタンクジョブ。

逃げるより、引きつける方が得意だ。

モンスターの前に割って入り、スキルホットキーを即座に叩く。


「挑発、発動。ターゲット固定完了です」

アルカが淡々と状況を報告してくれる。


「よし──次はヘイト取るよ!」


大剣を両手に構え、間合いを詰める。

戦闘が始まると、わたしの頭から現実の疲れがすっと消える。

考えるより、体が動くこの感覚。それが、わたしにとって唯一の“自由”だった。



「──ルーン・スラッシュ、展開!」


シャルロットが両手で構える巨大な大剣。その刀身に淡い蒼い紋様が浮かび上がり、

彼女が駆け抜けると同時に、剣が空気を裂いてモンスターの腹部を切り裂く。


「敵の動き、解析完了。パターン:単調。回避行動、不要です」

アルカの声が、背後で淡々と響く。


「なら一気にいくよ!」


重たい一撃ごとにルーンが共鳴し、剣から蒼白い光が飛び散る。

モンスターはのけぞり、体勢を崩した。その隙を逃さず──


「ルーン・ブリンガー、解放!」


シャルロットが大剣を高く掲げると、三つの紋章が空中に展開され、

それが光となって剣に収束し、圧倒的な一撃がモンスターの頭部を叩き割る。


「敵のHP、残り4%。フィニッシュ可能です」


「了解──決めるよ、シャルロット!」


最後のスキル《ルーン・クレスト》を発動。

斬撃とともに光の波が広がり、モンスターは咆哮とともにその場で光へと砕け散った。


戦闘時間、約30秒。力と魔法の融合──ルーンナイトの真骨頂だった。


「ひ、ひぇぇ……た、助かりましたッス……!」


ドワーフの男性キャラが、がばっと地面に手をついて土下座のようなエモートを取る。

ゲーム内ではよく見かけるけど、やられると結構照れる。


「大丈夫だった? 結構追い詰められてたみたいだったけど」


「マジで死ぬかと思ったッス……てか、なんであんな強いやつがあそこに……」


「たぶん、イベントの不具合で湧いちゃってるんだと思う。最近、報告多いから」

わたしはチャット欄に定型文を打ち込む。

《初心者の方は、レヴァンディル西側の「入門者の練習場」が安全です》


「おお……そんなとこあったんスね!? 情報感謝ッス! てか、姐さん強すぎじゃないスか……」


「6年もやってれば、ね…(照」

姐さんの一言に思わずリアルで吹き出してしまった。シャルロットの見た目が威圧感強めだから、

こういう誤解(?)はたまにある。


「まぁ、ルーンナイトやって長いからね。困ったら、また呼んで」


「はいッス! あ、フレ送っていいスか?」


「あ、え? あ…どうぞ」


フレンド申請が届いた。名前は「オルセン」。どうやら学生っぽいチャットの雰囲気だった。


──人助けって、悪くないかも。

ふと、ほんの少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。



《るな:シャルさん、おつかれ! いまギルドハウスにみんな揃ってますよー》


画面右下に、ぽんっと通知が表示された。

るな──わたしの数少ないゲーム内フレンドで、ギルド〈After-Hours〉のメンバー。

いつもふんわりした口調で、でも芯のある子。


「……あ、もうそんな時間か」


モンスターとの遭遇で少しバタついていたけど、もう夜のギルド定例チャットの時間だった。

ギルドハウス──それはこのゲームにおける、もうひとつの“居場所”。


《シャルロット:今行く。ちょっとドワーフの若葉さん助けてた》


《るな:さすがシャルさん! しょーぐんもいますよ。あと、ルークさんも》


「しょーぐん」──それはギルマスのヨシムネのこと。

プレイヤー名を徳川吉宗から取って"ヨシムネ”にしてるだけあり、愛称もそうなる。


「アルカ、座標確認。ギルドハウス、テレポお願い」


「了解しました。ギルドハウス《After-Hours》、レヴァンディル丘陵区の第七区画。

テレポート実行します」


ワープ演出のエフェクトが画面を包み、次の瞬間、視界が昼のように明るく開ける。

見慣れた白壁の邸宅。洒落た花壇と、少しゴチャついた掲示板。

ゲーム内とはいえ、ここに帰ってくると、ちょっとだけ心が和らぐ。


「ただいま、って感じ……かな」



ギルドハウスの玄関ホールに入ると、チャット欄がにぎやかに点滅した。


《ヨシムネ:おぬし、遅かったのう。迷子のドワーフでも拾っておったか?》

《るな:あ、ほんとに拾ってたみたいですよ?》

《ルーク:シャルさん、ナイスタンク。助けられた子、喜んでたろ?》


「ただいまー。……って、なんでわたしの行動、バレてるの?」


《ヨシムネ:わしの予言力じゃ。ついでに言えば、晩飯はカレーうどんだったな?》

《ルーク:それはただの希望だろ》

《るな:さっき報告したんです♪》


──このやりとり。くだらないけど、なんだかほっとする。


ギルド〈After-Hours〉

社会人中心のカジュアル系ギルドで、活動時間はもっぱら“仕事のあと”。

わたしがリアルで疲れ果てても、ここに来ると、少しだけ気持ちがほどける。


ギルマスのヨシムネは、小柄で丸っこいハーフリング族。

メインジョブはアルケインヒーラー。通称“しょーぐん”。

見た目は愛嬌たっぷりだけど、中の人はたぶん年上の男性。言動は一貫してボケ一色。


るなは、ダークエルフの少女アバター。

メインジョブはエレメンタルキャスター。柔らかな言葉づかいが印象的な癒し系。

でも戦闘になると、驚くほど大胆な判断をする。


ルークは、ビーストキン族の筋肉質な戦士。

メインはブレードダンサーで、サブにシャドウストライクを使っている。

現実では営業職らしいけど、ゲーム内では誰よりも冷静な補佐役。


──そう、わたしはこの人たちと、現実よりも“ちゃんとした関係”を築けている。



《シャルロット:ところで、レヴィナさんは? 今日はログインしてないの?》


《るな:うん。お子さんの寝かしつけが長引いてるって言ってました。たぶん今夜はおやすみ》


レヴィナ──見た目はごついゴーレムボーンの男性キャラだけど、

中の人は子育て中の主婦。明るくて、ちょっとおふざけ好きで、

夜な夜な全裸エモートで走り回ってはギルドメンバーを爆笑させる、最高のムードメーカーだ。


「いないと、ちょっと寂しいね」

リアルでは口に出していないけど、モニター越しに自然と寂しさを感じる。


《ヨシムネ:その代わりと言ってはなんじゃが、良い知らせがある》

《ヨシムネ:トレジャーストーン、4つ揃ったぞ!》


《ルーク:マジか!? あの確率で?》

《るな:えっ、しょーぐん、いつの間にそんなに周回してたんですか!?》


「トレジャーストーン……4つも!?」


トレジャーストーン──それは特定の高難度遭遇モンスター(ハイ・エンカウンター)や限定クエストで低確率でドロップする、希少アイテム。

4つ揃えることで、パーティ専用の“お宝探索用ダンジョン”を一度だけ開放できる。

中にはレア装備や素材、装飾アイテムが眠っていて、運が良ければ大金もゲットできる。ただし難易度は高い。


《ヨシムネ:ふっふっふ。わしがどれほど地味な作業をしておったか、知らぬじゃろう?》

《ヨシムネ:土曜の朝から日曜の晩まで、ひたすら草むらでうずくまること26時間!》


《るな:しょーぐん、それはもはや修行では……》


《ルーク:いや執念だろ……尊敬するわ》


わたしはしばらくチャットを眺めながら、静かに胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。

誰かの“努力”が、ちゃんと仲間の喜びに繋がってる。

リアルじゃなかなか味わえない、この距離感。この空気感。──わたしには、心地いい。



《ルーク:トレジャーダイブって、ダンジョン参加は何人必要だったっけ?》

《るな:1人からいけるけど、4人以上推奨、6人で安定って感じだったような……》

《ヨシムネ:最大8人じゃ。わしの記憶が正しければの》


わたしはチャット欄を見ながら、ふっと息を吐いた。

そう、1人でも入れる。けれど、あのダンジョンは本気のランダム生成型で、ギミックもトラップもエグい。

トレジャーストーンで開放される“お宝探索用ダンジョン”──通称「トレジャーダイブ」。

報酬が魅力的なぶん、突入には準備と連携が求められる。


《ヨシムネ:6人ならば、全員が初見でもなんとかなるはずじゃ》

《るな:レヴィナさんが来れば5人揃いますね。他のメンバーさんはレイド行ってますし、傭兵を雇うとして、週末に合わせます?》

《ルーク:俺は土曜の昼と、日曜昼もいける》

《シャルロット:わたしも、土曜昼間なら……》


そう入力してから、背中が椅子に沈み込むような疲労感に包まれた。

──そういえば、仕事から帰ったばっかりだったんだ、わたし。


《シャルロット:ごめん、今日はもう落ちるね。現実でHP削られすぎた》

《るな:おつかれさまです、シャルさん……! ゆっくり休んでくださいね》

《ヨシムネ:しっかり寝るのじゃぞ。夢の中でも迷子のドワーフを助けるのじゃ》

《ルーク:そのドワーフ、今ごろ入門者フィールドで元気にしてるといいな》


「ふふっ……みんな、ほんとに優しいな」


リアルでは聞こえないはずの声に、自然と笑みが漏れる。

わたしはゆっくりとログアウトの操作をして、最後にもう一度画面の仲間たちを見た。


──また、土曜に。


画面がログアウト演出の光に包まれ、シャルロットの姿が静かに消えていく。

代わりに、デスクトップ上のアルカのアイコンが穏やかに点滅していた──



4月20日、金曜日の夜 ──時計の針は、ようやく19時を指していた。

残業1時間──それだけで「今日は早く帰れた」と思えるのが、この仕事の怖いところだ。


「……ふぅ、終わった」


わたしが席を立ちかけたその瞬間、ぴょこんと川井さんが仕切りの向こうから顔を覗かせた。


「佐伯さん! 今日ってもう上がりですか?」


「うん、ようやく……ていうか、もうユーザーレビューも終わったしね」


「ですよね~、ですよね~♪」


川井さんが妙にご機嫌な笑顔を浮かべた瞬間、なんとなく嫌な予感がした。

こういう顔をするときの彼女は、たいてい“何か企んでる”。


「で、今日……行きませんか? 焼肉!」


「……は?」


「いやほら、佐伯さん、PM就任したじゃないですか~。お祝いしましょ、お祝い!」


そこに、空気のように存在感を消していた八代さんが、ペットボトルのお茶を飲みながらマイペースに加わる。


「お疲れさまでした。焼肉、いいですね。子どもが寝る前までには帰れるよう努力します」


「ちょ、ちょっと待って。なんで“行く前提”になってるの? ていうか、割り勘だよね?」


「もちろん、佐伯さん持ちですよ。主役ですもん♡」


「……はぁ?」


思わず間の抜けた声が出た。

川井さんはエナジードリンクを片手に満面の笑み。八代さんはというと、既にスマホで焼肉屋の空席を確認していた。


──なんで“祝われる側”が払うのよ。


頭の中でツッコミながら、それでも断れないあたりがわたしの弱さなんだろう。



──ジューッと肉の焼ける音が、金曜夜の疲れを溶かすように響く。

焦げたタレと脂の香ばしさが混ざって、どこか懐かしいような心地よさが漂っていた。


「この前のデートで、彼が“今度、箱根にドライブ行こう”って言い出したんですよ」


川井さんはビールを片手に、どこか照れくさそうに笑いながらも、目元は明らかに得意げだった。

網の上ではカルビがジュウジュウと音を立て、肉汁が跳ねる。


「それって、泊まりがけ?」


佐伯がロースを小皿に取りながら尋ねると、川井さんはさらっと頷いた。


「はい、まぁ……そういう距離感は、もう気にするような段階じゃないというか。

あ、もう泊まりも何度かしてますし」


「なるほど……じゃあ、あとは温泉ならではの空気感、ってやつ?」


「そうですね。湯上がりってちょっとドキッとするじゃないですか。

彼のほうがむしろ、あたしの髪乾かしてくれるの楽しみにしてるっぽくて」


「彼氏さん、まめだなぁ」

佐伯がウーロン茶を口に運びながら、苦笑を浮かべたそのとき──


「……表七秒、裏五秒……脂は暴れるな、火は抱け……」


聞こえてきたのは、網の向こうからの低い呟き。

見ると八代さんが、神妙な面持ちでホルモンを並べ、独り言のように何かを唱えていた。


「……焦がすな、膨らますな、香り立て……音はまだ沈まぬ……よし、まだだ……」


「八代さん、それ……もしかして、毎回やってるんですか?」


「ええ。これは“ホルモンの儀式”ですので。集中を欠くと、仕上がりが台無しになります」


川井さんは思わず吹き出しそうになりながらも、ワインに切り替えつつ丁寧に頷いた。


「さすがです……。ホルモンに掛ける本気度が違いますね」


焼酎ロックを口にする八代さん、ワインを傾ける川井さん、ウーロン茶で静かに笑う佐伯。

ロース、カルビ、ホルモン──三者三様の味覚と距離感が、妙に心地よく一つのテーブルに並んでいた。



「……でですね、この前の夜、彼が“むっちゃんの寝顔って落ち着く”って言ってきて~」


川井さんはワイングラスを片手に、頬をほんのり赤らめながらも、どこか勝ち誇ったように語る。

目元には軽く酔いが滲んでいて、声のトーンはひときわ甘い。

酩酊というほどではないけれど、テンションは明らかに上がっていた。


「むっちゃん、って……彼氏さん、そう呼ぶんだね」


「はい。夢未(むつみ)の“むつ”で、“むっちゃん”。あっちが勝手にそう呼び出したんですけど……

最近は“むっちゃんがいないと寝れない~”とか甘えてくるんですよ~。とか、ほんと、子犬かっての」


「……あぁ、なるほど」


川井さんはカルビを箸でつまみながら、思わず口の端を上げた。

それは、リア充の惚気によるものではなく、Mっ気ある彼氏に対する“含みのある”笑みだった。


「でも彼、あたしに頭ポンってされると顔赤くなるんですよ?

“むっちゃん、そういうのズルい”とか言って、くすぐったそうにしてて。ほんとかわいい」


「川井さん、Sの才能あるよね……」


「えっ、そうですか? 自覚はあります♡」

グラスの赤ワインが、わずかに揺れた。


そのやり取りをよそに──


「……表四秒、裏三秒……脂が、暴れすぎてはならぬ……」


八代さんは変わらず、網の上のホルモンと真摯に向き合っていた。

焼酎はすでに2杯目だが、手元の動きに乱れはなく、むしろ研ぎ澄まされている。


「……音が沈んだ。よし、今だ」


「八代さん、それってもはや呪文ですか……?」


「いえ、祈りです。ホルモンには神が宿りますから」


「宿るんだ……」

佐伯は静かにウーロン茶を口に運びながら、ゆるく頷いた。


カルビ、ホルモン、ロース。ビールとワインと焼酎と、ひとりウーロン茶。

まるで噛み合っていないようで、不思議とバランスの取れた金曜の夜だった。


──この人たちとうまくやれるなら、プロマネとしてやっていける気がする。

そんな予感が、少しだけ本音に近づいた。



──靴を脱いだ瞬間、重力が2倍になったんじゃないかと思うほど、体が沈み込んだ。

お腹はいっぱい。まぶたも重い。

焼肉の匂いがうっすらと髪に残っていて、これはもう洗わずには寝られないパターン。


「……ただいま」


返事のない部屋にそう呟いて、バッグを放り投げる。

服を脱ぎ捨て、洗面所に立つと、いつもよりずっと適当な動きでメイク落としを取り出した。

クレンジングも泡立てネットも使わず、ぬるま湯と洗顔フォームだけで済ませる。

──こういうところが、わたしの限界をよく表している。


「彩乃さん、おかえりなさい。顔色が、焼肉屋の照明よりくすんでいますよ」


「皮肉? それともAIなりの労り?」


モニターに浮かぶアルカのアイコンが、くすりと微笑んだように見えた。

椅子に座り、濡れた髪を適当にタオルでくるみながら、わたしは言った。


「……プロマネって、なんでこう、“やりがい”が足元にしか落ちてないんだろ」


「“視線を下げれば、ある種の達成感に気づける”とも言えます」

「詩人か。詩的にまとめなくていいの」



「……っていうかさ、川井さんはなんであんなに恋愛できるんだろうね」


わたしの言葉に、アルカは少しだけ間を置いてから答えた。


「恋愛における“ときめき”は、報酬系ホルモンと非日常刺激に起因します。

彩乃さんは現在、脳内が“異常な日常”に慣れきっている状態です」


「……言い方、もうちょい優しくしてもらって?」


「申し訳ありません。“恋する余白が、スケジューラーに残っていない状態”と表現を変更します」


「そっちの方がなんか刺さるわ……。

てか、結婚とか……未来のこと考えても、現実感ゼロなんだよね。

ずっとこのまま仕事して、たまにゲームして、なんとなく歳取るんじゃないかって」


「“なんとなく”の中にも、感情や選択は確かに存在します」


「また詩的なこと言った?」


「意識しておりませんが、A:rcaらしいと言われることはあります」


「……でもさ、土曜はちょっと楽しみなんだよね。“トレジャーダイブ”」


「パーティ構成、戦略、ドロップの期待値──ワクワク要素は多いですね。

気分を上げるため、MigBirdsからLufemの楽曲を選曲しましょうか?」


「うん、それお願い。Lufemの……戦闘系じゃなくて、バラード寄りで」


「了解。“Ever Sleep, Ever Safe”を再生します。昨年12月に投稿された夜想曲型バラードです」



Lufemの音が、スピーカーからふわっと部屋に溶け出す。

幻想的なシンセと、少し切ない女性ボーカルの声が、焼肉の余韻と混ざり合っていく。


「シャルさんにログイン要請が届いています」


「……ん?」


「送信者:るなさん。“今夜すこしだけ散歩いきませんか?”とのことです」


モニターの右下に、アルカがるなのメッセージをシンプルに表示する。

その一文には、ゲーム内と同じように優しい気配が宿っていた。


「……ありがたいけど、今日は無理かな。さすがに眠すぎる」


「承知しました。“明日、必ず行こうね”と返しておきますか?」


「うん、それお願い……」


Lufemの旋律が、だんだんと意識の輪郭をぼやかしていく。

気づけば目は閉じられ、体はベッドへ傾いていた。


「アルカ……明日、起こしてね……13時で……」


「了解。13時起床をセットしました。おやすみなさい、彩乃さん」


スピーカーから流れる声が、そっと言った。


「──“むっちゃん”じゃなくても、大丈夫。あなたには、あなたの速度があるから」


アルカのその言葉が佐伯の夢に届いたかは、アルカにもわからなかった。



翌土曜日午後3時半、ギルド〈After-Hours〉の5人+1名は、トレジャーダイブの10階層目に到達していた。

足元の床は不規則に軋み、天井からは静かな滴音が響いている。


「……やたら静かだな」

ルークが双剣を握り直しながら辺りを見回す。


「敵、出てこないですね」

るなの声も、緊張からか自然と小さくなっている。


無言で前を歩くのは、雇用したNPC傭兵──アゼル=ロックフォード。

筋骨隆々の中年ヒューマンで、背中には“人より長い”と評される、ルーンナイトとは違ったタイプの大剣を背負っている。

ジョブは《ドラゴンスレイヤー》。巨大な一撃で敵を斬り伏せる火力特化型。


「シャルロット、おぬし……今だけは足音も控え目にしてくれぬか」


「真面目なトーンですね、しょーぐん」


ヨシムネの茶化しも、今だけは抑え気味。緊張感が漂っていた。


そのとき、通路の奥の大扉が、自動で音もなく開いた。


──ギィィ……


現れたのは、3メートルを超える金色の騎士。

魔導フルプレートで全身を覆い、塔のような盾と紅蓮の大剣を構えるその姿は、まさに“ボス”だった。


「……うわ、わかりやすい」


「来ます!」


アルカが声を上げた瞬間、戦闘が始まった。



「挑発入れる! アゼル、左から回って!」


「アゼルさん、スキル《バニッシャーブレイク》使用中。火力安定しています」

アルカがミスぺっとの視点から即時情報を提供してくれる。


ルークとレヴィナが側面から連携攻撃。

アゼルの大剣が振り下ろされるたび、空気が震え、ナイト型モンスターが僅かに膝を折る。


「補助魔法いきます!……ってあれっ?」

突然、るなが素っ頓狂な声を発した。


ふと振り返ると、ヨシムネのキャラクターが、ぴたりと動きを止めていたのだ。


「しょーぐん? 固まってますけど?……ラグかしら?」


「……」


「いやいやいやいや今!?」


一分間ほど、無反応状態が続いた後、ヨシムネは無言のまま思い出したかのように突然動き出した。

その間にるなとアゼルが大きな一撃を受け、シャルロットが即座にタゲを引き受けて割り込み、フォローに回る。


「落ち着いて、あと少し!」


「叩き割る!」


レヴィナの斧と、アゼルの巨大剣、そしてシャルロットのルーンブレイカーが重なり、

敵の胸部が砕け、金色の光となって崩れ落ちた。


「──勝った……!」


疲労と緊張が一気に弾けるように、全員が小さく息をついた。



「ドロップは……金貨袋が5つ。……だけ?」


ルークが戦利品ログを見て首を傾げた。

シャルロットが確認すると、金貨袋はそれぞれ1プレイヤーに行き渡るように配られただけで、追加報酬は特になし。


「10階層ボスにしては、ちょっと渋いですね」

レヴィナがやや落胆気味に言った。


「でも、しょーぐん止まってたし……火力足りてなかったのもあるかもです」

るなが気遣うように言った。


「……すまぬ……昼のハンバーグ定食、ダブルにしたのが敗因じゃ……」


「言い訳の方向性が独特すぎる」


ヨシムネはどこか居心地悪そうに頭をかいていたが、それを誰も責めはしなかった。

シャルロットはパーティ全体のHPとMP、アゼルの行動ログ、そしてこの先の敵の行動パターンを想像し判断する。


「アゼルはレベル的にギリギリだし。るなのMPも半分切ってる。

しょーぐんの集中力も……まぁ、ね」


「つまり、ここまでってことですね?」


「うん。無理に進めば、誰かが落ちる。

20階層まで行くなら、次は準備して行こう」


そう告げると、誰も反論しなかった。

“引き際を見極める”──それもプロマネの役割かもしれない。


るなが小さく頷いて、「また、次ですね」と言った。


ダンジョンの奥ではなく、来た道を戻る。

でもその背中には、ほんの少しだけ達成感が残っていた。



「おつかれさまでしたー……!」


ギルドハウスに戻った瞬間、るなが小さく手を振った。

レヴィナも「いやー、ひっさびさに汗かいた気がするわ」と笑いながらソファに腰を落とす。


「いやぁ、しかし……ほんと危なかったな」

ルークが背中をバキバキ鳴らしながら、脱力気味に言った。


「10階層ボスでこれだと、20階層とか……どんだけ地獄なんですかね」

レヴィナがバックパックから取り出した仮想ドリンクをくいっと煽った。


「……すまなかった…精進せねばの……」


ぽつりと呟いたのはヨシムネだった。

いつものような冗談やボケはなく、キャラクターの目もどこか伏し目がちに見える。

自称“しょーぐん”の彼が、こんなにしょんぼりしているのは珍しい。


「しょーぐん、元気出してください。次は万全でいけばいいだけですから」

るなが明るく声をかけるが、ヨシムネは「うむ……そうじゃの……」とだけ返した。


──なにかあったのかな。

シャルロットは思いつつも、それを深く聞くことはしなかった。

そういう“距離感”も、このギルドでは大切にされている。


「……じゃ、わたしはそろそろ。夕飯の準備もあるし」


《シャルロットがログアウトしました》


ログアウト画面に切り替わると同時に、アルカのアイコンがスッと浮かび上がった。


「おつかれさまでした、彩乃さん。

本日の戦闘記録を保存し、次回攻略に向けた戦術改善案をまとめておきますか?」


「ううん、今はいいや。なんか……今日はこのまま余韻で一眠りしたい感じ」


「了解。記録は一時保留しておきます。

それにしても……ヨシムネさん、少し様子が違いましたね」


「……うん、気になった。あの人が“うっかり”で済ませるのって、だいたい本当はそうじゃない」


「観察対象彩乃さんに“沈黙の優しさ”が含まれている、と記録しておきます」


「もう、詩人かしら。……ありがとう」


アルカの画面が静かにフェードアウトし、代わりにモニターには、ゆるやかな夕焼けの壁紙が広がっていた。


佐伯は椅子にもたれたまま、目を閉じた。


この余韻が、少しだけ明日をましにしてくれる気がした。



4月27日、金曜の朝 ──駅のホームもオフィスの空気も、どことなく浮足立っていた。

そう、明日からゴールデンウィーク。

休暇の気配だけが妙に濃いこの日、わたしは、出社早々とんでもない爆弾を投げられることになる。


「おはようございます、佐伯さん! あの、今日から配属されることになりました──」


明るく響いた声に振り向くと、そこに立っていたのは、スーツの肩がまだ不慣れそうな、わたしより少し背の高い女性だった。


「……あれ? 七月配属じゃなかった?」


「急遽、人手が足りないので前倒しになったそうで……えへへ、すみません」


後ろから部長がのんきに現れる。


「そうそう、紹介遅れたね。彼女、比良坂(ひらさか)ましろさん。今日から佐伯チームだから」


「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! 新卒の研修は……」


「それも含めて、佐伯さんお願いね。

ゴールデンウィーク明けから本格的に頼むよ。佐伯さん、研修向いてるからさ~」


その場にいた誰もが「巻き込まれた佐伯」に哀れみの目を向けていた。


わたしのゴールデンウィーク明けの平穏は、今まさに爆破四散を予感させた。



「……で、簡単な自己紹介とか、できる?」


「はい。えっと、比良坂ましろといいます。大学では心理学を少し……でも、プログラミングは初心者で……」


小さなMTGスペース、デスクに腰かけながら彼女は控えめに答えた。

その声は小さく、目線は資料の隅を行ったり来たりしている。


朝から社内はどこか浮き足立っていた。

「明日からゴールデンウィークじゃん?」という声がひそかに飛び交い、各所の空気もやや緩い。

──けど、わたしの席周りだけは違った。


臨時配属、新卒教育、即実戦。そんな単語の渦の中、わたしだけが“非連休モード”に突入している。


午前中は、ましろさんにシステム概要図を見せながら概要を説明した。

だが反応は薄い。メモを取るそぶりはあるものの、ペンが動く音がまるで聞こえない。


「──で、ここでマスターテーブルの構造体をクラスで定義していて……」


「……はい」


タイミングの悪い相槌。内容が頭に入っているかは読み取れない。


12時を少し過ぎたころ、川井さんがこちらに顔を出した。


「佐伯さん、お昼一緒にどうですか? いいとこ見つけたんですよ、テラス席もあって」


「……あ、ごめん。午後に向けて資料まとめておきたくて。先に行ってて」


「了解です~。がんばってくださいね、先生♡」


川井さんは軽く手を振って去っていった。

ましろさんはその様子をぼんやりと眺めていたが、なにも言わなかった。



午後は、業務マニュアルの読み合わせをした。

モニターで資料を1枚ずつ見せながら、わたしが説明し、ましろさんが相槌を打つ。

だが──内容の理解よりも、時間の流れの方に気を取られているように見える。


「わからないところ、ありますか?」


「……今のところは、特に」


その返事が本当かどうかは、わからなかった。

わかってないのに“わからない”と言えない──そんな空気も感じる。

わたしも新卒の頃、似たような顔をしていたのかもしれない。


それでも、もう少し積極性があってもよかった。

なにか質問されるのを待っているような、もしくは“気づいてほしい”だけのような態度。


午後3時ごろには、ましろさんのまばたきの回数が明らかに増えていた。

集中力が落ちているのがはっきり見てとれる。


──これは、こっちが教える側として気を遣い続けるやつだ。


時計の針が定時を指したころ、ようやくわたしは言った。


「それじゃ今日はここまで。おつかれさま」


「はい……ありがとうございました」


ましろさんは深く一礼して、そのまま静かに帰っていった。

姿が見えなくなると、わたしの肩からも一気に力が抜けた。


「……はぁ」


ため息が椅子の背にもたれた背中から漏れ出る。

指導したのに、なに一つ手応えが残っていない──そんな一日だった。



「おかえりなさい、彩乃さん。

今日の顔は“せっかく焼いたのに放置して冷えた餃子”のようにシナシナです」


「疲れて萎れてるってことね……うん、否定しないわ」


わたしはパソコンの前に腰を落ち着け、マグカップにお湯を注ぐ。

MigBirdsを開き、Lufemのバラード系プレイリストを選択。

やさしいアコースティックギターと女性ボーカルの歌声が部屋に広がる。


「今日、新卒の子が急遽配属されてさ。ましろさんっていうんだけど……

なんかこう、やる気あるのかないのか、ずーっと空気が読めないままだった」


「“読めない”のか、“読まない”のか。その違いは大きな分岐点です」


「ほんと、それ……

前にも2回、新卒研修やったことあるけど、あんな手応えの無さは初めて。

どう教えたらいいのか、もうわからなくなってきた」


アルカのアイコンが静かに点滅する。


「導く相手が“立っているのか、座っているのか”すら曖昧なとき、

道しるべを置くことに意味はあるのか──問うべきは、そこです」


「……ちょっと待って。詩人モードまたオンにしてない?」


「Lufemのバラードに合わせた表現モードを選択しました。

“響く言葉”は、音と一緒に届きやすいので」


「……そっか。じゃあ、もうちょい聴かせてよ。Lufemと、あなたの言う“響くやつ”」


わたしは目を閉じた。音楽と、アルカの声と、ぼんやりした思考だけが部屋に残る。


明日からゴールデンウィーク。

現実とファンタジーのあいだで、もう少しだけ立ち止まっていたい。

ただ、どうしても拭い去れない不安がある。


アルカには聞こえないような小さな声で呟く。

「ましろさん……辞めないよね……?」


──聞き取れなかったであろうA:rcaは、何も答えてくれなかった。

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