第18話

「ほら! 撮るよ」


「うわっ、ちょっと、もっとちゃんとした写真を!」


「この方が面白いから、い! い! の!!」


 ちょっと待て。俺って、もしかして小学生の尻に敷かれてる。俺は思わず由真の横顔を見た。その笑顔がにやりと少しいたずらそうに微笑む。


 一瞬、未来の俺と由真の光景が重なったように感じて、俺は思わず由真を見る。


「どうしたの!?」


「いや、なんでもない」


「変なお兄ちゃん」


 隣でクスクス笑う由真。こういうあどけないところはいつもの由真だ。


 それにしても一瞬、由真が同い年くらいに見えた。俺は欲求不満なんかよ!


「それより見てよ、ほら!」


 由真が見せてきたプリクラには、大人しそうに澄んだ表情の由真と思い切り変顔をしてる俺が写っていた。


「えー、これ俺!?」


「うん、お兄ちゃんぽくってカッコいいよ」


 いや、これをカッコいいと言うジャンルで捉えるのはおかしい。その証拠にクスクスと由真は笑っていた。


「ああ、楽しかったな。これ大切にするね」


「捨ててくれたって構わないから」


「えーっ、そんなこと言ったらダメだよ」


「由真は可愛く撮れたからいいけどよ。俺はさ」


「そんなことないよ! これ可愛い!」


「ちょ、待ってよ」


 その由真の表情がとても可愛くて、俺は思わずドキッとしてしまった。俺が由真にドキドキしてどうするんだよ。


「次はどこへ行くんだ!?」


「うん、映画館、行こ!」


 由真は俺の手を握って走り出す。


「ちょ、ちょっと待って」


「待たないよぉ!」


 由真の声が大きく響いた。周りにいる何人かの人がその光景を見て、一瞬えっと言う表情をしたが、その顔は微笑みに変わる。まあ、俺たち仲の良い兄妹にしか見えないよな。


「これ、見たい!」


 映画館のロビーに立つ由真は、ポスターの前でじっとタイトルを見つめていた。


「……《セピアの約束》。これ、見たいな」


「え? 由真ちゃん、これ、結構大人ぽい映画だと思うけど」


 俺の声に、由真はふふんと胸を張った。


「そんなことないよ。由真くらいの娘だって、こんな映画見るよ!」


 本当なのかな!? まあ、男より女の方が発育は早いと聞くけれども……。


 まあ……せっかく由真の頑張ったご褒美だ。俺は深く考えずチケットを取ることにした。


 ポップコーンとジュースを買って席に着いたとき、由真はずっと落ち着かない様子で、膝の上で手を重ねたり、指をもぞもぞ動かしていた。


「緊張してんのか?」


「ううん……ちょっとだけ。映画館あんまり来たことないから……」


 確かにそうだ。由真はこれまで小学生の女の子が当たり前のように親や友達と遊んだりする時間の全てを犠牲にして練習をしてきたのだ。


「映画、きっと、楽しいよ」


「うん!」


 由真は俺に合わせて映画を選んでくれたのではないだろうか。もう少し子供向けの楽しいアニメの方が良かったかもしれない。


 そう思っていると上映が始まった。場内が暗くなると、由真はポップコーンを食べる手を止めた。


 物語の舞台は異国の港町。音楽家を目指す青年と、名家の娘が惹かれ合い、やがて禁じられた恋に落ちる。映像は淡く美しく、セリフの一つひとつがまるで詩のように響いた。


 この内容ならば、由真でも楽しめているかも知れない。


 その証拠に由真は夢中になっていた。スクリーンの光がその頬を照らし、表情が場面に応じて柔らかく、そして真剣に変わっていく。


 ――だが。


 青年が、雨に濡れた石畳の上で恋人を抱き寄せ、ゆっくりと唇を重ねたその瞬間。


 由真の肩が、ぴくりと震えた。


 スクリーンでは、ふたりのキスが長く、甘く、濃密に続いていた。唇だけでなく、指が絡み、息が混じるような――子どもには明らかに刺激が強すぎる描写。


 やばいな。流石にこんなシーンあるなんて思わないよ。いや、邦画ならありえるはずはないが、洋画にはたまにこんなシーンがあって、親と見てた瞬間、お茶の間が凍りついたのを思い出した。由真はいま何を考えてるのだろう。


 俺はチラッと横目で由真を見る。顔が真っ赤に染まり、視線はスクリーンに釘付け。口を半開きにして、息を詰めている。


「……ん、ん……」


 小さな声が漏れ、指先がジュースのカップをぎゅっと握りしめる。


 ディープキスをどう説明すべきか迷う俺の横で、由真がそっと呟いた。


「……あんなにキス……長くするんだね……」


 その声は、子どもらしい好奇心と、大人の世界への戸惑いが感じられた。


「え、まあ……映画だしね。演出ってやつじゃないかな……」


 流石にディープキスは性行為に近い行為だ。それを説明することは、今の俺にはできない。由真が大人になり、良い人と出会い恋をして、そう言う行為をする時に自然とするようになるはずだ。今は知らなくていい。そう思っていた俺の隣でやっと聞こえるくらいの小さな声で由真が呟いた。


「お兄ちゃんは……キス、したことあるの?」


「えっ!?」


 不意打ちの質問に声が裏返る。冗談かと思ったが、由真の目は真剣そのものだった。


「……こんなふうに、誰かと……好きな人と……」


 俺は口ごもり、軽く咳払いをして視線を逸らす。


「な、ないよ! そ、そういうのは、ちゃんと大人になってからの話だよ」


「そっか……」


 由真は、何かを噛み締めるように呟いてから、スクリーンに視線を戻した。


 物語の終盤、ふたりは引き裂かれ、遠く離れた場所でそれぞれの人生を歩む。だけど、ラストシーン――青年が音楽を奏でると、遠く離れた丘の上で少女がふと空を見上げる。


 ふたりの間に、再会はなかった。でも、心は――繋がっていた。


     ***


 上映が終わり、場内が明るくなる。由真は無言のまま立ち上がり、俺の横に並んで歩き出す。館内を出た瞬間、冷たい風が頬を撫で、現実に引き戻された気がした。


「……ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「キスって……あんなに、ドキドキするものなんだね」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。代わりに、隣を歩く由真の小さな背中を、少し遠くから見守るように歩いた。


「私も……いつか、あんなふうになれるのかな」


「大人になったらね。焦らなくていいよ」


「でも、ちょっとだけ、先のこと……楽しみになったかも」


 その横顔は、どこか寂しげで、どこか誇らしげだった。


     ***


 駅前のロータリーで、迎えに来た母親の車が停まり、由真が乗り込むとき、ふと振り返って俺を見つめた。


「今日は、ありがとう。すごく楽しかった」


「うん、俺も……」


「春休み、もう終わっちゃうけど……」


 由真は少しだけ唇を尖らせて、何かを言いかけて、やめた。そして代わりに、こう言った。


「また、連れて行ってね」


「あ、ああ、またな!」


「うん!」


 由真は車の窓の向こうで、にぱっと笑った。


 車が走り去ったあとも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。今日一日が、夢だったんじゃないかって思うほど、甘くて、ちょっぴり危険で、そして忘れがたい――春の記憶。


 俺の胸に残っているのは、ディープなキスシーンじゃなくて。


 由真の、照れ笑いと、まっすぐな眼差しだった。

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