第16話

 観客の拍手が潮が引くように遠ざかり、リンクに静寂が戻った瞬間、場内アナウンスが鋭く割り込む。

「続きまして――ミラノリーフクラブ所属、水城紗良選手の演技です」


 名前が響いた瞬間、テレビカメラが紗良の方を捉える。空気が音もなく入れ替わった。冷気が肌を撫で、肺に吸い込む呼気がわずかに白む。

 ――来る。

 氷の女王の名前が示すように、紗良はゆっくりと立ち上がった。白銀に近いアイスブルーの衣装は、縫い込まれた極細の銀糸がライトを受けるたびに星塵のような瞬きを見せ、リンクの中央へ進む紗良の軌跡だけが、別次元の温度で輝いているかのようだった。


 その歩幅は無駄なく、背筋は弓のようにしなやかで、足音すら吸い込む氷面――。

 観客は息を潜め、リンクの淵に立つ俺自身の鼓動さえ、耳の奥で不規則に跳ねるのが分かった。


 数秒の沈黙。

 まるで会場全体が一度凍りつき、呼吸を封じられたような静寂のあと、ピアノが氷の結晶を転がすような硬質の音色を奏で始める。直後に重なる弦が、澄んだ冬の空気をきしませながら震わせ――曲名は《氷華》。冷厳でどこまでも透きとおる旋律が拡散し、観客の心拍を一拍ごとに吸収していく。



――演技:完全無欠の“完成品”


 冒頭――トリプルルッツ+トリプルトゥループ。

 踏み切りから着氷までの一連が、まるで物理法則をなめらかに書き換えたようだった。エッジが氷を押し出す瞬間の氷片すら乱れず、空中姿勢は彫像のように崩れない。観客席のどこかで小さく吸い込まれた息が、氷の欠片になって落ちてくるような錯覚――俺は知らずのうちに肩を引き上げ、関節が軋むのを感じた。


 続くキャメルスピン。回転の軸は直径数ミリの真芯で固定され、回転速度が上がるほど衣装の銀糸が光を引き延ばし、氷上に淡い光輪を描き出す。緩と急、静と動。形容しがたい緊張と安堵のコントラストが、1回転ごとに胸郭を締めつける。


 ステップシークエンス。刃の音はまるで遠い銀鈴。エッジが氷を刻むリズムは正確に音楽と同期し、計算し尽くされたトレースが幾何学の肖像をリンクへ転写していく。

 「美しい」という陳腐な語彙では収まりきらない完結性。背筋が粟立ち、指先が冷える。完璧とは、かくも恐ろしい。




 演技終盤・ただ、完璧、後半1分を切ってなお、紗良の呼吸は安定し切っていた。腹式で整えられた吐息が淡く白いだけで、肩は上下せず、足取りに乱れもない。――実戦であるはずなのに、まるで最終リハーサルを完璧に再現しているかの如く。


 そして訪れるクライマックス。

 トリプルアクセル。

 助走のスピードは驚くほど短い。鋭角的な踏み切りから宙へ押し上げられた身体が、吸い寄せられるように頂点へ達し、その間――時空が引き伸ばされる。観客の網膜に残像が焼きつき、重力が彼女にだけ弱まったような幻覚さえ生む。

 着氷は無音。衝撃を全身で吸収した直後にわずかなスプレーを散らし、最後のスピンへ移行。回転を漸減させながら、音楽の終止形と同時に静止。右腕を氷上に差し出し、左手で胸を制し、顎をわずかに引いた――一切の迷いを含まぬ決めポーズ。


 瞬間、張りつめていた静けさが爆ぜ、会場は立ち上がった。

 スタンディングオベーション――いや敬礼と言うべきか。

 歓声は大気よりも高く澄み、拍手は雪崩のように広がる。俺の耳の鼓膜は打圧に震え、しかし胸の奥は妙に凪いでいた。

 ――文句のつけようがない。

 ジャッジの目に浮かぶ微かな驚愕すら、静謐の中に凍りついている。



 隣に立つ由真は氷の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら目を伏せ、蒼い瞳の奥に何かを沈めている。その睫毛が震えた瞬間、俺の心臓も共振した。


「……今日の彼女の演技には、“華”がなかったな」

 細い由真の声。吐息に混じった温度は低く、けれどその底に燃えるものは熱かった。


 俺はゆっくり頷く。

「完璧すぎて、一度も揺れなかった。でも―由真の“音”の演技だって完全に負けたわけじゃない」


 由真の口角がほんのわずかだけ上がった。

 大きな波の引き際のように、胸の奥で張りつめていた糸がほろりと緩むのが分かった。




「第一位――ミラノリーフクラブ所属、水城紗良選手! 得点、一三四・三五!」


 MCの高らかな声に続き、天井のライトが一際鮮やかにスポットを落とす。拍手の密度が物理的に空気を圧縮し、床材が微かに震えた。


「第二位――ノルテフィリアクラブ所属、佐伯由真選手! 得点、一二七・八八!」


 重ねて鳴り響く拍手。その質は確かに変わっていた。

 以前のそれが健闘だったのに対し、今は純度の高い“賞賛”――観客が由真に期待する先の光景を、はっきりと共有した証だった。


 由真はコーチ席の俺と視線を交わし、小さく息を吸った。瞳に宿る揺らぎが誇らしくもあり、同時に次の戦いへの狼煙のようにも見えた。


 その証拠にテレビ局のカメラのスポットライトは紗良だけでなく由真にも当たっていた。


 三人の少女がメダルを胸に下げ、中央のリンクを照らすライトに包まれている。

 最上段の紗良はマイクに応じながらも余裕の微笑みを崩さず、取材陣の問いに隙なく受け答えしていた。その立ち姿は、栄光を当然の帰結として受け取る者のものだ。


 隣の由真は、わずかに背伸びするように姿勢を正している。汗で濡れた髪を耳にかけ、胸に下げた銀色のメダルを指先でそっと確かめ――そこで紗良が身を寄せ、声を落とした。


「……あなたの演技、素晴らしかったよ」

 由真の目が驚きでわずかに見開く。俺は遠目にも唇の動きを読んで、その言葉を確信した。


「心に来た。でも、優勝は譲れない。わたしはこれからも強くなる!」

「うん。私も負けないよ」


 視線の交差。観客の歓声が遠くなり、二人だけの静かな決闘宣言がリンク中央に結界を張ったように感じられる。――その瞬間、ふたりの間にテレビ局の報道陣が詰め寄る。紗良には負けはしたが、由真は大きなものを残した。


「わたしのやり方じゃ、ダメだったのね」


 気配に導かれて振り返る。

 望月コーチが、城崎真白の肩をそっと抱きとめるように支えながら、じっと由真を見つめていた。望月コーチの表情は読みにくい。けれど確かに、苛立ちでも敗北感でもない“揺らぎ”がある。いずれその揺らぎが、彼女の中で新しい結論を導くだろう。


 ――由真、やっと、お前の“心”が届いたんだ。

 胸の奥で、俺はそう静かに呟いた。

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