第6話 毒りんごを、私に.2

 オーディションが終わると、すぐに時津は退出した。


 頭が混乱していたため、珈琲でも、と思って自動販売機のほうに向かったのだが、たまたますぐ後ろから追ってきていた監督に声をかけられる。


「やあ、時津さん。どうだった?」


 気さくな女性だというのが、最初の印象だった。


 若くして、そこそこ名の知れた監督だというのに、それを鼻にかけるような真似もしない。まあ、見栄など張る必要もないのだろう。


 能力も成果も評価されている人間は、焦りなどない。自分を必要以上に大きく見せる意味など、どこにもないのだ。


「正直なところ私には、演技のことは分からない、というのが本音ですね」


 肩を竦めて、芝居がかったふうに答える。


「はは、そうかもね。私にも文学めいたことは正直さっぱりだ」


 でも、と彼女は前置きしてから、流れるような仕草で時津が買おうとしていた珈琲を購入し、手渡してきた。


 あまりにスマートで、洗練された自然な動きに、思わず言葉を失ったまま缶を受け取ってしまったが、すぐに気付いてお礼を口にする。


「あ、ありがとうございます」


 片手でそれをいなしながら、彼女は続けた。

 その仕草だけで、随分モテるだろうな、という評価に変わる。


「花月林檎だけは別物だったろう?」


 唐突に胸の中のしこりのような人物の名前が出てきて、一瞬だけ言い淀む。


「さすがとしか言いようのない演技だったが、ヒロインの名前も『りんご』なのは、どこか運命めいたものを感じるな」


「そう、ですかね」


「やはり、天賦の才と、運を持っているのかな。彼女のような人種は」


 天賦の才や、運という言葉で片付けるのは少々癪だったため、何となく軽い調子ではあったものの反論してしまう。


「どうでしょう、私は、彼女からはそれだけでは片付けられないものを感じます」


「ほう」と興味深げに監督が不敵な微笑を浮かべた。


「あ、すいません。偉そうなことを言ってしまって…」


「いや、いいんだ。私も、同じようなものを感じることがある」


「花月…林檎にですか?」


 珈琲のプルタブを引き抜きながらそう尋ねると、彼女は愉快そうに笑い、首を軽く振った。それからじっと、時津の目を覗き込むと、周りには聞こえないような小声でこう言った。


「いいや、君にだよ。時津胡桃さん」


「え?」と目を丸くしてから、すぐにからかわれたのだと思った。「またまた、御冗談を」


「冗談じゃないさ。今回の作品だって、ただの創作物ではないと思ったから、話に乗ったんだよ」


 やけに勘が鋭いな、と反射的に眉間に皺を寄せる。その直後、監督が、「君は分かりやすいな」と呟いたことで、今度はカマをかけられたのだと察した。


「何のことか分かりませんけど…、私は大した人間じゃありません」


「おや、私の目を疑うのかい?」


「自分を信じていないだけです」


「そうか」と考え込むような仕草と共に口を閉ざした彼女は、良いことを思いついた、と言わんばかりに掌を打ってから、「今晩、君の才能についての話を肴に、飲み明かさないかい?」と言った。


 随分気障だが、食事に誘われているようだと推測する。


「もちろん、無理にとは言わない」


 パチリ、とウインクする姿が様になっている。


 大人の魅力とはこういうものかと感心しつつ、自分の立場も踏まえて、どうするべきかと時津は頭を悩ませた。


 正直、そういう面倒なことには関わりたくない。


 だが、今後作家としてやっていくなら、パイプを作っておくことは決して無駄ではない。


 …幸い、相手は女性だし、モテるから相手にも困らないタイプだろうし…。

 いきなり取って食われる、ということは起こらないだろう。


 そう結論づけて、時津が『喜んで』と返事をしようとした瞬間だった。


「監督ぅー。お久しぶりです」


 甘ったるい、間延びした口調が監督の向こう側から聞こえてきて、二人は無意識のうちに顔をそちらに向けた。


 茶髪に染めたセミロングを揺らし、それに連動させるような手首の動きをさせているのは、花月林檎だった。


 どうして彼女がここに、と目を丸くし、口の中だけで彼女の名前を呼んだ時津を置いて、二人は親しげに話を始めた。


「やあ、オーディション、良かったよ。花月君」


「光栄です、ありがとぉございます」


 閃光が散るみたいに破顔した花月を見て、監督は思い出したふうに時津を紹介しようとした。


「あ、花月君。もう知っているとは思うが、彼女が時津胡桃さんだ。まだ最近売れ始めた若手だが――」


「はぁい、存じ上げてますよ」


 ドキリと、心臓が拍動する。


 同級生です、と言われても、何も困らないはずなのに、何故か緊張してしまう。


 しかし、花月が口にした言葉は、時津が予想していたものとは全く違うものであった。


「だって私、胡桃先生のファンですもぉん」


 そう言って彼女が取り出したのは、時津の処女作であった。


 花月の発言を真に受けた監督は、感動したように目を丸くし、声を高くしたのだが、廊下の奥のほうから別のスタッフに呼ばれて、後ろ髪引かれる様子で立ち去っていった。


 去り際に彼女が、「さっきの食事の件、考えておいてくれよ」と念押ししたため、曖昧に笑って返事をする。


 突然降って湧いた再会と、会話の機会に、時津は気まずくなって意味もなく缶を見つめた。すると花月は、何でもない様子で話の続きを始めた。


「あの、サインとかって貰えますか?」


「は?え、えぇ…」


 その他人行儀な調子に、まさかとは思っていたが、花月が自分のことを忘れている可能性が浮上してくる。


 いや、私なんて、たかが高校生の頃の同級生だ。勝手に思い出を深刻化して、彼女がいつまでも私のことを覚えているなんて思っていたのは、ただの思い過ごしだったのか。


 自分の勘違いだということが分かると、急に恥ずかしくなってきた。


 花月のことを思い、その過去を整理するために生み出した、『一口分の毒林檎』。


 私は、それを読んだ彼女が、自分の元に訪れてはくれないだろうか、と心のどこかで期待していたのかもしれない。


 自分の逞しい妄想力で、赤面していた時津は、花月にサインペンはないかと尋ねられて適当に首を振った。


「じゃあ、そこの控室のやつを借りましょう。ね?」


「あ、はい。分かりました」


 どうしよう、元同級生ですと名乗るか?

 いや、何だかそれも痛々しい。


 どうせ彼女とは、これからの撮影のために一緒になることもあるだろう。


 まだオーディションの結果も出ていないというのに、フライング気味に時津が判断し、控室のドアを開けたとき、不意に強い力で両肩を何かに掴まれ、わけも分からないうちに、背中を壁に押し付けられた。


 鈍い音と、くぐもった衝撃音。


 息が軽く詰まるも、すぐに酸素が復活する。


 直後、パチン、という音と共に部屋の照明が消え、廊下へと繋がる扉の小窓から漏れてくる光以外、何もなくなった。


 薄明かりが、唐突な暗闇と押さえつけられているという事態に驚き、怯えている自分の顔を照らし出す。同時に、自分の目の前で薄笑いを浮かべていた、花月林檎の毒々しい表情も。


 桜色の唇を軽く開けて、彼女が息を吸ったのが分かった。


「ほんとぉ、昔から警戒心が薄いんだからぁ。胡桃ちゃんは」


 その囁きかたと、名前の呼び方で、一瞬のうちに高校時代の私たちが脳裏に蘇る。


 脳味噌まで砂糖菓子で出来ているのかと思ってしまうような、鼻にかかった、人畜無害そうな声。


 例え、執筆中に筆が進んでいるようなときでも、花月の華やかな笑みの裏側に潜む毒々しさを、時津は片時も忘れたことはなかった。


「か、花月、覚えてるの…?」


 花月はその問いに満面の笑みで返すと、一音、一音、はっきりと、丁寧なアクセントで告げた。


「『久しぶりぃ、元気してたぁ?』」


 ひゅっ、と反射的に肺が膨らむ。


 花月は悪戯な笑みのまま両肩を握った手に力を込めると、ぐいっと、一歩時津の内側に踏み込んだ。


 甘ったるい、昔の花月とは違う香りが漂ってくる。いや、これだけ近いと、私から花月の匂いがしているみたいだ。


「馬鹿だなぁ、覚えてないわけないじゃん」


 美しい黒い光を放つ、オニキスのような瞳は、どこまでも自分の心の底を見つめてきているような気がした。


 それでいて、自分の思惑の一切を外部に漏らさない、どこか一方的な強引さに、時津は心をかき乱された。


 二人の間には、昔のような身長差が、確かにそこには息づいていたものの、風化した時間と、ヒールの高さとで距離は縮んでいる。


 当時より、わずかに近くなった位置で、花月が口を開く。


「何とか言いなよ、胡桃ちゃん」


 その執拗な猛禽類を思わせる眼差しから、首をねじってかわそうとするも、さらに一歩詰め寄られ、彼女の鼻先と自分の唇とが触れ合いそうな距離になる。


 そうして、沈黙を保っていた私の首筋に、彼女が顔を埋める。

 その拍子に、体がびくりと跳ねた。


「あの頃みたいに無視するんだ。へぇ」


 まともな会話もしていない段階で、一方的に責めるような言葉を受けた時津は、ムッとして相手を見下ろした。


「何で私が悪者みたいに言われなきゃいけないわけ?」


「だって、無視は良くないよぉ?」


 今さらかわい子ぶった口調に戻る花月が、こちらを馬鹿にしているように感じて、時津は目力を強める。


「変わってないね、花月は」


 ぴしゃりと言った言葉が暗闇を静かに打つ。


 何かが花月の癪に障ったのだろう、明らかに彼女は自分を取り繕う余裕を失い、燃えるような激情を瞳でたぎらせ、時津を見上げた。


 その激情が何に向けられ、一体どういう類のものなのかは、時津には分からなかった。


 あらゆる種の感情が、花月の中でうねり狂っているのだろう。それを言葉に託して送り出そうとする様子が何度か見られたが、結局は上手くいかず、その度に花月は悔しそうな顔をしてみせる。


 何も答える気がないのなら…、と時津が言葉を重ねる。


「一方的に絡んできて、自分の言いたいことばかりで…!」


 ぎらりと鈍い眼光を向けられ、一瞬、言葉を詰まらせるも、そのまま勢いを途絶えさせることなく続ける。


「――こういうことも、する」


「…こういうこと?こういうことって、どんなことかなぁ?」


 彼女が浮かべたのは、余裕を感じさせる笑みだったが、それが急ごしらえのプレハブ小屋みたいなものだとは、すぐに見抜けた。


 だからこそ、時津は相手を追い詰めるように、話の根本にある問題に恐れず触れた。


「あの日、花月が私にしたようなことだよ」


 暗い控室の中で、彼女の瞳がわずかに揺れる。それでも、彼女は果敢に言葉を紡いだ。


「あんなのさぁ、子どものお遊びじゃん。別に服を脱がせて何かしたわけでも――」


「最低」


 時津の声には、はっきりとした拒絶が示し出されていた。


「あの日のアンタも、今のアンタも、最低だよ」


 ショックを受けたように、花月の動きが止まった。


 瞳は丸々と開いたまま固定され、その中心に時津の姿を映っている。しかし、徐々に彼女も我に帰り始めたのか、黒い目にはまた様々な感情が渦巻き出した。


 そして、その渦潮の中心には、時津がいた。


 無数の水泡を巻き込みながら回転する渦は、やがて抱えきれなくなった真珠のような涙を、その外側に浮かび上がらせる。


 突然泣き出した花月を、唖然とした目つきで見つめていた時津だったが、弾き飛ばすようにして両手を離した彼女が、言葉もなく非難するように睨みつけてきたことで、いよいよ意味が分からなくなった。


「…どうして、花月が泣くの?」


 無意識でそう尋ねた時津だったが、花月はその問いに答えることもなく、八つ当たりするように扉を跳ね開けると、そのままどこかへと消えていった。


 何なの、意味が分からない。


 あのとき、私の気持ちを無視したのは、


 …花月林檎、あなたのほうでしょ。

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