エピローグ「桜舞う記憶 ~ 介護士たちが語る千代子と正雄の物語~」

 春の夕暮れ、陽だまりの丘介護施設のラウンジには、オレンジ色の柔らかな光が差し込んでいた。窓の外では、満開の桜が風に揺れ、ときおり花びらが舞い落ちる。特に「千代子桜」と「正雄桜」と名付けられた二本の若木からは、美しいピンク色の花びらが舞い散っていた。


 この日、太田千代子さんの一周忌を迎え、施設のスタッフたちは勤務を終えた後、ひっそりとした追悼の集まりを開いていた。テーブルの上には、千代子さんと田中正雄さんの写真――あの桜の木の下で撮った九十五年越しの約束を果たした写真が置かれ、その周りには白い花が飾られていた。


「みなさん、今日はお集まりいただき、ありがとうございます」


 施設長の近藤雅子が静かに口を開いた。彼女は六十代半ばの、穏やかな笑顔を持つ女性だった。二十年以上この施設を運営し、多くの人生の終焉を見届けてきた。


「太田千代子さんが私たちのもとを去って、今日でちょうど一年になります。そして田中正雄さんは、それより一ヶ月ほど前に。二人のスーパーセンテナリアンの物語は、私たち全員の心に深く刻まれています」


 近藤の声には深い敬意が込められていた。十人ほど集まったスタッフたちは静かに頷き、中には目を潤ませる者もいた。


「今日は自由に、お二人との思い出を語り合いましょう。介護の現場では、多くの別れを経験します。でも彼らとの別れは、悲しいだけではなく、何か特別な贈り物をもらったような……そんな気持ちになりませんでしたか?」


 最初に口を開いたのは、若手介護士の藤原誠だった。三十歳になったばかりの彼は、千代子さんと特に親しかった一人だった。


「太田さんから、僕は『時間』について学びました」


 藤原は窓の外の桜を見つめながら静かに語り始めた。


「ある日、僕が忙しさにかまけて雑な介護をしてしまったとき、太田さんはこう言ったんです。『藤原さん、時間は大切なものよ。けれど目の前の人を大切にしないで過ごす時間は、本当の時間じゃないわ』と」


 藤原は少し照れたように笑った。


「その日から僕は、どんなに忙しくても、入居者の方と接するときは、その瞬間だけに集中するようになりました。百十歳の方に教えられたんです。時間の本当の価値を」


 その言葉に、何人かのスタッフが深く頷いた。


「わたしは田中さんの朝の習慣が忘れられません」


 次に話し始めたのは、四十代の介護士、佐藤美和だった。


「田中さんは毎朝、自分で身支度を整えた後、必ず窓を開けて深呼吸をするんです。『朝の空気は命の源だ』って。百十二歳の方が、そんなふうに毎日を迎える姿に、わたしはいつも感動していました」


 佐藤は少し微笑んで続けた。


「あるとき聞いてみたんです。『田中さん、そんなに長生きできる秘訣は何ですか?』って。そしたら田中さんは笑って、『特別なことは何もしていない。ただ、明日も生きようと思って眠るだけだ』って。シンプルなのに、深いですよね」


 近藤施設長は温かい紅茶を入れながら、静かに会話に加わった。


「私が忘れられないのは、お二人が再会されてからの変化です。特に太田さんの目の輝きが変わったんです」


 近藤は遠い目をして続けた。


「長年この仕事をしていると、高齢者の表情の変化に敏感になります。太田さんは元々穏やかで思慮深い方でしたが、田中さんと再会されてからは、まるで少女のような輝きが戻ってきたんです」


「あぁ、わかります」


 六十代の男性介護士、山本哲也が頷いた。


「田中さんも同じでした。お二人が一緒に過ごすようになってから、姿勢まで変わったんですよ。背筋が伸びて、声にも力が戻った。まるで本当に若返ったように」


 山本は長年、特養での介護に携わってきたベテランだった。


「ある日、お二人を庭に案内したときのことです。田中さんが車椅子から立ち上がろうとされたので、危ないと思って止めようとしたんです。でも太田さんが小さく首を振られた。『大丈夫、見守ってあげて』って」


 山本は少し感動した表情で続けた。


「田中さんは震える足で立ち上がり、太田さんの車椅子を自分で少し押したんです。たった数歩でしたが……百十二歳の男性が百十歳の恋人のために見せた騎士道精神というか……。私はその場から動くことができなくなりました。あまりにも神聖な瞬間に立ち会ってしまったような気がして……」


 その言葉に、皆が黙ってうなずいた。静かな感動が部屋を包んだ。


「私が驚いたのは太田さんの記憶力です」


 四十代の看護師、田村聡子が静かに語った。


「認知症の方を多く見てきましたが、太田さんの認知機能は驚異的でした。九十五年前の出来事を、昨日のことのように鮮明に覚えていらっしゃる。でも不思議なことに、それは単なる記憶力の問題ではなさそうだったんです」


 田村はコーヒーを一口飲んでから続けた。


「太田さんは『大切な記憶は心で覚えるものよ』とよく言っていました。思い出したいことがあると、目を閉じて深呼吸して、『心で記憶を呼び起こす』と。その姿勢が美しかった。百十年の記憶を整理する独自の方法をお持ちだったんですね」


 二十代の若い介護士、中島裕子が恥ずかしそうに手を挙げた。


「私……太田さんと田中さんの秘密を一つ知っています」


 皆が興味深そうに中島を見つめた。


「夜勤のとき、巡回すると、時々お二人が廊下でこっそり会っていたんです。施設の規則では夜間の部屋の出入りは……」


 彼女は少し言いよどんだが、近藤が優しく頷いたので安心したように続けた。


「お二人とも百十歳を超えているのに、まるで若い恋人同士のようにコソコソと……でも私は見て見ぬふりをしていました。だって、その時間がお二人にとってどれほど貴重かを知っていたから」


 中島は少し照れて頬を赤らめた。


「ある夜、太田さんが田中さんの額に軽くキスをされたんです。そのとき田中さんが言った言葉が忘れられません。『九十五年待った甲斐があったよ』って」


 部屋には再び静かな感動が広がった。

 年齢を超えた純粋な愛の形に、皆が心を動かされた。


「確かに、規則は規則ですが……」


 近藤は穏やかに笑って続けた。


「人生の最後の春に見つけた幸せを、どうして邪魔できましょう。実は私も知っていたんですよ。二人の夜の逢瀬を」


 近藤のその言葉に、皆が驚きの表情を見せた。厳格な規則観を持つ施設長が、そんな例外を黙認していたとは。


「高齢者介護の真髄は、単に生命を維持することではありません。その人らしく、尊厳を持って最後まで生きることを支えること。太田さんと田中さんは、私にその原点を思い出させてくれました」


 窓の外では、夕暮れが深まり、桜の花びらが夕日に照らされて輝いていた。


「田中さんが最期を迎えられる少し前のことです」


 四十代の介護士、井上和夫が静かに語り始めた。


「私が夜勤で部屋を訪れると、田中さんは起きていて、窓の外を見ていました。『井上さん、人は死んだらどうなると思う?』と突然聞かれて、どう答えていいか迷いました」


 井上は窓の外の桜を見つめながら続けた。


「田中さんは私の困惑を察して笑い、『百十二年生きると、死が怖くなくなるんだよ。それはもう旅立ちのようなものだから……』と語り始めました。その夜、田中さんは自分の人生について、二時間近く話してくれたんです」


 井上の目には涙が浮かんでいた。


「最後に田中さんは『井上さん、桜は毎年咲くけれど、同じ花は二度と咲かない。でも、その花が散ったからといって、桜の命が終わるわけではない。人もそうじゃないかな』と言われました。その哲学的な言葉が、今でも私の心に残っています」


 藤原が深く頷き、自分のエピソードを加えた。


「太田さんも、死について独自の考えをお持ちでした。『死は別れではなく、再会への道』だとおっしゃっていました」


 藤原は千代子さんの写真を見つめながら続けた。


「太田さんの最期の日、私は朝の点検で部屋を訪れました。彼女は窓辺の椅子に座り、満開の桜を見つめていたんです。『藤原さん、ありがとう。私の物語を聞いてくれて』と言われました」


 藤原の声が少し震えた。


「その時はそれが別れの言葉だとは思いませんでした。でも今思えば、太田さんは自分の旅立ちを悟っていたのかもしれません。その日の午後、彼女は静かに息を引き取られました。窓辺で、桜を見つめながら……」


 部屋に沈黙が流れた。

 それは悲しみの沈黙ではなく、深い敬意に満ちた静けさだった。


「太田さんと田中さんのお二人から、私は『傾聴』の大切さを学びました」


 四十代の介護士、森川明美が静かに語り始めた。


「お二人とも、誰かの話を聞くときの姿勢が特別でした。特に太田さんは、相手の目をしっかり見て、全身で聞く。認知症の入居者が同じ話を何度も繰り返しても、初めて聞くように頷いて、質問までされる」


 森川は少し感動した表情で続けた。


「ある日、太田さんに『同じ話を何度も聞いて、退屈じゃないですか?』と尋ねたことがあります。すると彼女は優しく微笑んで、『同じ話でも、その瞬間の気持ちは違うのよ。その瞬間瞬間の、話したいという気持ちを大切にするの』と教えてくれました」


 その言葉に、多くのスタッフが深く頷いた。介護の現場では、同じ話を何度も聞くことが日常だが、太田さんはそこに深い知恵を見出していたのだ。


「田中さんも素晴らしい聞き手でした」


 佐藤が加えた。


「特に若いスタッフの悩みをよく聞いてくださって。私が人間関係で悩んでいるとき、田中さんは『人は変わらないと思って接すると楽になる。期待しすぎると苦しむだけだよ。むしろ自分が変わった方がいい。他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられるんだ』というアドバイスをくれました。百十二年生きた方の言葉は重みが違います」


 窓の外は徐々に暗くなってきていたが、誰も帰ろうとする素振りを見せなかった。まるで、この空間で千代子さんと正雄さんの存在を少しでも長く感じていたいかのように。


「お二人の食事の時間も特別でした」


 栄養士の川村美香が口を開いた。


「高齢者は食事の楽しみが減ってくることが多いのですが、太田さんも田中さんも、最後まで食事を楽しまれていました。特に太田さんは『一口目は目で味わい、二口目は香りで味わい、三口目でようやく口で味わうのよ』とよく言っていました」


 川村は少し微笑んで続けた。


「お二人が一緒に食事をされるようになってからは、さらに特別な時間になりました。田中さんが太田さんの好きなものを自分の皿から分けてあげたり、太田さんが田中さんの手の震えを気遣って、そっとサポートしたり……」


「あぁ、本当に!」


 中島が目を輝かせて加えた。


「二人の食事を見ていると、まるで長年連れ添ったご夫婦のようでした。でも実際は、施設で再会するまで九十五年も離れていたなんて……愛ってすごいですね」


 近藤はテーブルの上の写真を手に取り、優しく眺めた。


「太田さんの最後の言葉を知っていますか?」


 近藤は静かに言った。


「彼女のご家族によれば、最期の瞬間、太田さんは窓の外の桜を見つめながら、『約束は果たされたわ』とつぶやいたそうです」


 その言葉に、部屋の中が静まり返った。九十五年越しの約束。桜が咲く頃に一緒に写真を撮るという、あの約束。それが果たされた満足感を胸に、彼女は旅立ったのだ。


「わかります」


 ベテランの山本が静かに頷いた。


「田中さんも最期の瞬間、『来世では……もっと早く見つけるよ』と言われたんです」


 その言葉に、多くのスタッフの目が潤んだ。


「お二人は特別でした」


 藤原が言った。


「学歴や地位や財産ではなく、生き方そのものが美しかった。だから僕は、お二人の物語を本にしたんです。次の世代に伝えたくて」


 藤原の書いた『百歳の回想』は、多くの読者に感動を与えていた。千代子さんの語りを中心に、一世紀以上の日本の歴史と、九十五年越しの愛の物語を綴った本だった。


「私たちは特別な証人だったんですね」


 田村が静かに言った。


「多くの方々の人生の最後に立ち会うのが私たちの仕事ですが、太田さんと田中さんの最後の春は、本当に美しい物語でした」


 その言葉に、皆が深く頷いた。


「そうそう、思い出しました」


 井上が少し表情を明るくして言った。


「田中さんには独特のユーモアがありましたよね。ある日、私が『田中さん、何か欲しいものはありますか?』と聞いたとき、『そうだな、あと五十年の寿命かな』って言われて」


 その言葉に、皆が笑顔になった。


「太田さんも負けていませんでした」


 森川が加えた。


「誕生日に『何歳になりましたか?』と聞いたら、『またゼロから数え始めることにしたわ。今日で一歳よ』って。百十一歳の方の冗談とは思えない機知に満ちていました」


 笑いが部屋に広がった。それは悲しみを超えた、温かな追憶の場となっていた。


「私が驚いたのは、お二人のデジタル機器への適応力です」


 若い介護士の中島が言った。


「特に田中さんは、スマートフォンを使いこなしていました。『孫とLINEするんだ』って。百十二歳でSNSって!」


「太田さんもタブレットで電子書籍を読んでいましたよね」


 藤原が加えた。


「『大きい字にできるし、目が疲れにくいから助かるわ』って。新しいものを受け入れる柔軟性は、長寿の秘訣かもしれません」


 近藤はゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夕闇の中、「千代子桜」と「正雄桜」の薄いシルエットが見えた。


「お二人から学んだ最大のことは、人生には『遅すぎる』ということはないということでしょうね」


 近藤は静かに言った。


「百十歳と百十二歳という年齢で初恋を取り戻し、新しい愛を見つけた。それは私たち全員への大きなメッセージだと思います」


 スタッフたちは黙って頷いた。千代子さんと正雄さんの物語は、彼ら一人一人の心に深く刻まれていた。


「最後に、皆さんで乾杯しましょう」


 近藤は紅茶のカップを持ち上げた。


「太田千代子さんと田中正雄さんの魂が、永遠に寄り添いますように」


 全員がカップを掲げ、静かに乾杯した。


「そして、あの二本の桜が、末永く美しい花を咲かせますように」


 窓の外では、夜風が「千代子桜」と「正雄桜」の枝を揺らし、最後の花びらが舞い散っていた。まるで百年以上の時を生きた二人の魂が、新しい旅立ちへと舞い上がっていくかのように。


 その晩遅く、藤原は一人で施設の庭に出た。満月の光に照らされた二本の若木の前に立ち、静かに頭を下げた。


「太田さん、田中さん……今日は皆であなたたちの思い出を語り合いました」


 彼は星空を見上げながら続けた。


「あなたたちの物語は、これからも多くの人々に希望を与え続けるでしょう。九十五年の時を超えた愛の物語として」


 風が吹き、桜の最後の花びらが舞い散った。藤原はその光景を見つめながら、心の中で誓った。千代子さんと正雄さんから学んだ知恵を、自分の人生と仕事に活かし、次の世代に継承していくことを。


 時間は円を描く。始まりと終わりが、時に美しく交わることがある。百十歳の春に咲いた愛の物語は、このように記憶の中で生き続け、多くの人々の心に春の訪れを告げていた。


(終)


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