第9話「春は続く ―― 千代子の最後の桜」

 千代子の葬儀は小さく、静かに行われた。家族と親しい人々だけが集まり、彼女の長い人生を偲んだ。施設からは藤原をはじめとする多くのスタッフが参列した。彼らは千代子に特別な愛着を感じていた。


 藤原は、千代子から聞いた話を元に、追悼の言葉を述べた。


「太田千代子さんは、百十一年の人生を通じて、私たちに多くのことを教えてくれました。特に印象的だったのは、彼女が『人生には遅すぎることはない』と言っていたことです。百十歳で初恋の人と再会し、人生最後の春に新しい愛を見つけた彼女の物語は、私たちに希望を与えてくれます」


 参列者の多くは涙を流していた。それは悲しみの涙だけでなく、感動の涙でもあった。百十一年という長い人生が、最後まで美しく完結したことへの感動。


 葬儀の後、花子は藤原に声をかけた。


「母の日記、本当にありがとうございました」


 彼女は深く頭を下げた。


「あの日記を読んで、母がどれほど深く人生を見つめていたか、改めて知ることができました」


「いいえ」


 藤原は静かに答えた。


「太田さんは素晴らしい方でした。私が教えていただいたことのほうが多いです」


 花子は微笑んだ。


「藤原さん、母の録音テープ……どうされるつもりですか?」


「今、編集しています」


 藤原は真剣な表情で答えた。


「太田さんの百年の記憶を、一冊の本にまとめたいと思っています。『百歳の回想 ――大正から令和まで』という題で」


 花子は感動して言葉を失った。母親の記憶が本という形で残ること。それは千代子が望んでいたことかもしれない。


「素晴らしいですね……ぜひ協力させてください」


 花子は心からそう思った。


 藤原は千代子の墓前に花を供えながら、静かに誓った。彼女の物語を、次の世代に伝えるという誓い。百十一年の知恵を無駄にしないという誓い。


 春から夏へと季節が移り変わる頃、施設の庭に特別な工事が始まった。それは千代子と正雄を偲んで、二本の桜の木を植えるためだった。


「千代子桜」と「正雄桜」と名付けられたそれらの木は、来年の春に初めて花を咲かせる予定だった。施設長の近藤が中心となって計画したこのプロジェクトは、多くの人々の支持を受けた。


 工事の日、藤原は特別な箱を持って現場に訪れた。箱の中には、千代子と正雄の思い出の品々が入っていた。正雄の古い万年筆、千代子の絹のハンカチ、二人の写真……それらを桜の木の根元に埋めるという、少し不思議な儀式だった。


「太田さんと田中さんの魂が、この桜と共に生き続けますように」


 藤原は静かに祈った。


 その日の夕方、施設のラウンジで特別な集まりが持たれた。入居者たちや職員が集まり、千代子と正雄の思い出を語り合った。


「太田さんは、いつも朝一番に起きて窓から外を眺めていました」


 ある介護士が言った。


「田中さんは、いつも本を読んでいましたね」


 別の介護士が思い出を語った。


 そうやって二人の記憶は、人々の中で生き続けていた。


 秋になり、藤原の編集作業は終盤を迎えていた。千代子の語りを書き起こし、それに写真や資料を加えて一冊の本にまとめる作業。それは予想以上に大変だったが、彼はこの仕事に情熱を注いでいた。


「太田さん、もうすぐ完成します」


 彼は時々、空に向かって呟いた。


 冬が来て、施設の庭は雪に覆われた。新しく植えられた二本の桜の木も、白い雪をまとった。近藤は毎日、その木々の様子を確認していた。


「ちゃんと根付いていますよ」


 庭師は近藤に報告した。


「来年の春には、きっと花を咲かせます」


 その言葉に、近藤は満足げに頷いた。


 新しい年が明け、藤原の本が完成した。『百歳の回想 ――大正から令和まで 太田千代子の証言』という題名のその本は、最初は小さな出版社から出版されたが、驚くほど多くの人々の心を捉えた。


 百年以上の時代を生きた一人の女性の記憶。それは単なる歴史書ではなく、生きた経験として読者の心に響いた。特に多くの若者たちが、この本から日本の歴史を学び、考えるようになった。


「太田さん、あなたの言葉が多くの人に届いています」


 藤原は本を手に取りながら、静かに言った。


 二月、千代子の一周忌が近づいていた。施設では特別な行事を計画していた。千代子の家族や、正雄の家族も招待され、二人の生涯を祝う集まりが持たれることになった。


 花子は藤原にメールを送った。


「藤原さんの本、とても素晴らしいです。母の言葉が、こんなに多くの人に届いているなんて、母も喜んでいると思います」


 藤原はその言葉に深く感動した。彼の仕事が、千代子の遺志を継ぐものになったと感じたからだ。


 三月になり、施設の庭の桜の蕾が膨らみ始めた。「千代子桜」と「正雄桜」も、小さな蕾をつけていた。それを見た近藤は、静かに微笑んだ。


「二人の魂が、この桜に宿ったのかもしれませんね」


 彼女は藤原に言った。


「そうかもしれませんね」


 藤原も頷いた。


 春の訪れとともに、施設には特別な空気が流れていた。それは悲しみではなく、静かな祝福の雰囲気。百十一年の人生を生き切った千代子と、百十二年の人生を全うした正雄を祝う気持ち。


 そして桜が満開になった日、施設では千代子と正雄を偲ぶ会が開かれた。家族や友人、施設のスタッフや入居者たちが集まり、二人の思い出を語り合った。


 「千代子桜」と「正雄桜」も、見事に花を咲かせていた。二本の木は隣り合って植えられ、時に風が吹くと枝が触れ合い、花びらが舞い散った。


「まるで踊っているようですね」


 ある入居者が言った。


「そう、二人の魂が踊っているのかもしれない」


 近藤は静かに応えた。


 集まりの最後に、藤原は特別なスピーチをした。


「太田さんと田中さんから、私たちは多くのことを学びました。特に印象的だったのは、『愛には期限がない』という言葉です。九十五年の時を超えても、本物の愛は生き続ける……その証を、私たちは目の当たりにしました」


 参加者全員が深く頷き、静かに拍手した。


 会の後、藤原は庭に出て、満開の桜の下に立った。風が吹き、花びらが彼の周りに舞い散った。その瞬間、彼は不思議な感覚に包まれた。まるで千代子と正雄が、彼に語りかけているかのような感覚。


「二人の物語は、これからも多くの人々に希望を与え続けるでしょう」


 藤原は桜の木に向かって静かに言った。


「そして私も、その物語を伝える役割を果たします」


 彼はそう誓い、桜の花びらが舞う庭を後にした。

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