第2話「九十五年ぶりの邂逅 ―― 記憶の扉が開く時」
午後になり、千代子は共用ラウンジに移動した。窓際の一番日当たりの良い場所が彼女の指定席だった。他の入居者たちも、それを暗黙のうちに認めていた。
千代子はラウンジの大きな窓から外を眺めていた。施設の周りには広い庭があり、遠くには山の稜線が見えた。彼女はそこから世界の変化を観察するのが好きだった。季節の移り変わり、天気の変化、野鳥の飛来――それらの小さな出来事が、彼女の日々に彩りを与えていた。
共用ラウンジには数人の高齢者が集まっていた。皆、九十歳を超えている。しかし、千代子のような百十歳の超高齢者は彼女だけだった。彼女が入居した頃は、百歳を超える人がいるだけでも珍しかった。今では百歳超えの入居者が数人いる。世界は変わったのだ。
千代子はテーブルの上に置かれた新聞に目を通していた。視力は弱っていたが、それでも大きな見出しは読むことができた。政治の話題や経済ニュースよりも、彼女は文化欄や地方の小さなニュースに興味を持っていた。人間の物語に心惹かれるのだ。
スマートフォンを持っている入居者も増えてきた。千代子も曾孫にねだって、簡単なタブレットを買ってもらった。最初は戸惑ったが、今では電子書籍を読んだり、古い映画を見たりするのが楽しみになっていた。百年以上生きていても、新しいことを学ぶ喜びは失われない。
千代子は風景を見ながら考えていた。百年以上生きてきて、世界がどれほど変わったか。電灯がなかった時代から人工知能の時代まで。彼女の記憶の中には、今や歴史教科書にしか載っていない出来事が生きた経験として刻まれている。
彼女が若い頃、女性が大学に進学することは稀だった。女性の参政権もなかった。「女は家庭に入るもの」という価値観が当然とされていた時代に生まれ、その価値観が根本から覆される時代を生きている。自分の娘が働き、孫が海外留学し、曾孫が起業する姿を見てきた。
誰かが車椅子で入ってくる気配がした。
振り返ると、白髪の男性が職員に押されて入ってきた。背は曲がっていたが、目は鋭く光っていた。百年以上の時を生きた人間の目は、何かが違う。深い静寂と、言葉にできない知恵を宿している。千代子はその目に見覚えがあった。
「こちらが新しい入居者の田中正雄さんです」
施設長の近藤が紹介した。近藤は六十代の穏やかな女性で、この施設を二十年近く運営していた。
「そしてこちらが太田千代子さん、百十歳です」
田中は千代子を見つめた。その目に何かが灯った。九十五年の時を超えて、記憶が蘇る瞬間。千代子は何度も見たことがある。長生きする者の特権だ。失われたと思っていた記憶が、突然鮮明に甦ることがある。
「千代子……さん?」
その声には、若き日の響きが残っていた。百十二年の時を生きながらも、声の中には十七歳の少年が潜んでいる。千代子は百年の人生で学んだ。人は変わるようで、本質は変わらないということを。
「あの……どこかでお会いしましたか?」
田中は震える手で自分の眼鏡を直した。その仕草にも、遠い記憶が蘇った。
「横浜の……第一高等女学校の前で……よく待っていた男子がいたでしょう」
千代子の心臓が高鳴った。あの日々は九十五年以上前のこと。誰も覚えていないはずの記憶。だが百年を超える人生には、こういう奇跡が起こることを、彼女は知っていた。時は円を描き、始まりと終わりが出会うこともある。
「あなたが……あの正雄君?」
千代子の声は震えていた。百十年の人生で、こんなに心が揺れたことは久しくなかった。年を重ねると、多くの感情は穏やかになる。しかし、本当の愛の記憶は、百年経っても色あせないのだと、彼女は気づいた。
近藤は驚いた表情で二人を見比べた。
「お二人、前からご存知だったのですか?」
田中は千代子から目を離さず、ゆっくりと頷いた。
「九十五年前……大正時代に」
近藤は目を丸くした。百年近い昔の知り合いが、偶然同じ施設に入るなんて。そんな確率は限りなく低いはずだ。
「まあ、なんという偶然……」
近藤はそう言ったが、百年を超えて生きてきた二人は知っていた。これは偶然ではなく、何かの縁なのだと。時間が円を描き、再び交わる瞬間なのだと。
「少しお話しされますか?」
近藤は二人を窓際のテーブルに案内した。周囲には他の入居者もいたが、誰も二人に近づかなかった。まるで無言の了解があるかのように、二人のために空間が作られた。
田中は車椅子に座ったまま、千代子の顔をじっと見つめた。百年の時を経ても、彼は彼女の目を覚えていた。あの頃と同じ、澄んだ茶色の瞳。多くのものは変わったが、目の輝きだけは変わらなかった。
「本当に……千代子さんなのですね」
田中の声には感動が滲んでいた。百十二年の人生で、こんなに心が動いたことは久しぶりだった。
「ええ、私よ、正雄君」
千代子はそう言って小さく笑った。百十歳の女性の笑顔には、十五歳の少女の面影があった。時間は肉体を老いさせても、心は若さを保つことができるのだ。
田中は懐から古い手帳を取り出した。手の震えが激しく、それを開くのに苦労している。千代子は自然に手を伸ばし、彼を手伝った。二人の皺だらけの手が触れ合う。九十五年前には許されなかった接触が、今は自然に行われる。
手帳の間から、色あせた紙片が現れた。それは古い切符だった。大正時代の横浜市電の切符。田中はそれを大切そうに千代子に見せた。
「覚えていますか? あの日、一緒に乗った市電……」
千代子は目を細めた。遠い記憶が蘇ってくる。
「ええ……雨が降ってきて、急いで乗ったのよね」
田中の目に涙が浮かんだ。彼女が覚えていてくれたことが、彼の心を動かした。百十二年の人生で、彼はこの瞬間を何度も夢見てきた。
「九十五年間……ずっと持っていました」
千代子は切符を見つめた。大正時代の小さな紙切れが、百年近い時を超えて今ここにある。それは奇跡のようだった。彼女は自分の鞄から小さな布の袋を取り出した。中には押し花が入っていた。色は褪せていたが、形はまだ残っていた。
「私もこれを取っておいたの。あなたが学校の帰り道にくれた桜……」
田中の目から涙がこぼれ落ちた。百十二歳の老人が、十七歳の少年の感情を取り戻す瞬間。周囲の入居者たちは、静かに二人を見守っていた。誰も邪魔しようとしない。九十五年の時を超えた再会の神聖さを、皆が感じていた。
「二人とも、大変だったでしょうね……」
近藤は静かに言った。百年近い時を生きてきた二人の背後には、言葉では表現できない歴史があることを、彼女は感じていた。
「ええ、でもね……」
千代子は田中を見つめながら続けた。
「長生きしたからこそ、また会えたのかもしれないわ」
田中は頷いた。百十二年の人生で学んだこと――人生には時に、思いもよらない奇跡が起こるということ。
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