声のなかに眠るあなたの物語【マレブル】
マレブル
散歩みち(第2話)
「あれ…シャンプー、さっきやったっけ。」
通勤の歩道、地域ネコが真っ黒な瞳をこちらに向けてくる。
思わず目を逸らした。
西本利春は、いつの間にかオフィスの椅子に腰かけて画面をスクロールしていた。
背もたれに身体をあずける。
ギィという軋みは自分にだけ聞こえたのだろうか。
モニターに映し出された文字を全文写し取って返信する。
予測変換が「日程挑戦」と表示した。
―挑戦。―
周りに聞こえないように吐いた息は浅く、口元で消える。
深く吸って、深く吐くことは難しくなっていた。
このプロジェクトに社運はかかっていない。
リーダーに指名された西本係長の小さな運命だけがかかっている。
上司は「意外と…初めてのリーダーか。しっかりやれよ。」と笑っていた。
地域ネコが毎朝「しっかりやれよ」と見つめてくる。
ただ家へ。ただ会社へ。
ビルの隙間、歩きスマホ、無音のヘッドホン、信号の点滅。
何も見ていない。何も聞いていない。
>「君の呼吸は、どこへいってしまったのだろう」
>著:谷健吾 『ふかくもぐること』より
布団の中、充電器をさしたスマホに、流れてきた一文が目に留まった。
―呼吸。―静かで、容赦なく、正直なもの。
―呼吸。―生きるために必要なもの。
あの地域ネコの瞳を思い出した。
気がつけば、購入ボタンを押していた。
本が届いたのは、翌々日の夜だった。
西本は布団の中で、包装フィルムを破った。小さな詩集。
ページをめくると、短い詩たちが呼吸のように綴られていた。
一篇の詩が彼の心を捉えた。
「散歩みち」
自分のくつおとを ようやく思い出した
水たまりが空を映す
気づいたのは しゃがんだあとだった
呼吸がもどる
はやさが失われ
すべてが自分をおいこしていく
詩を読み終えたあと、立ち上がった。
時計は夜の十時をまわっていた。
スウェットに着替え、スニーカーで外に出た。
家の近くにある小さな公園。
毎日二回、素通りする公園。
誰もいなかった。
街灯と自販機が、ベンチを静かに照らしている。
ベンチの足元に、小さな水たまりがある。
西本は思わずのぞき込む。
何も見えない。自分の靴音だけ響く。
夜はこんなにも静かだったのかと気づいた。
肩で詰まっていた呼吸が、少しだけ動いた気がした。
次の日の朝、角を曲がると、地域ネコがこちらを見ていた。
西本を見ているのではなく、背後のカラスを見ていた。
黒く美しい体毛がわずかに風に揺れている。
部下の田口が「コンビニ行きますけど、何かいります?」と声をかけてきたとき、西本は彼に顔を向けてありがとうと言った。
田口は、おどろいた表情を瞬時に切り替えて笑い「ありがとうございます。」と西本に返した。
全てを背負わず、仲間に意見を求めることができる。
朝、シャンプーの回数を間違えない。
週末には、歩く。家の周りをゆっくりと。
「戻ることができる」ところまで歩く。
自分の呼吸が、深くなっていくことを感じながら。
夜十時から、最近ハマッているポッドキャストの収録。
西本は、ゲストの「人生を変えた一冊」を紹介する番組を配信している。
今夜は、西本がゲストとして番組に出演する。
コミュニティのコラボ収録だ。
「—その詩集に出会ってから、」
画面越しのインタビュアーに、西本は笑ってうなずいた。
「変わったのは見え方かなぁ。景色、音、人、それぞれ見え方が、たぶん"戻ってきた"。本来見えていたものとして。しんどい思いをしている人のそばに—この詩集が、そっと置かれていたらいいな、と思っています。」
―君の呼吸は、どこへ行ってしまったのだろう―
西本は、大きく吸い込んだ息を吐いた。
田口亮は、坂の途中で立ち止まっていた。
ひとすじ汗が流れて顎をかすめた。
天気予報は「例年よりかなり気温が低い」と告げていたのに。
朝の気持ちのいい空気を上手く吸うことができない。
会社から少し離れた住宅街。
昼休み、誰もいないこの坂道を選んだのは、人に会いたくなかったからだ。
西本係長がデスクで静かにタイピングする背中は「話しかけるな」と言っている。
田口がどんなに朝早く事務所についても、係長はいつもの席に座っていた。
けれど、最近は変わった。
「コンビニ行きますけど、何かいります?」と声をかけたあの日。
いつもなら一瞥もくれず「大丈夫」と返す係長が、ふいにこっちを向いて、穏やかに言った。「今は、いいや。ありがとう」
思わず顔が熱くなった。何か間違えたのかと思った。でも違う。
「係長、なんか…変わりました?」
声は喉の奥で留まった。
足元に気配を感じて、顔を上げる。
地域ネコがいた。毛並みの整った黒猫。
カメラを向けると、まっすぐにこちらを見返してくる。
「お前、こないだもいたな」
思わず呟くと、猫はしっぽをゆっくり一度だけ振った。
シャッターを切る。「#坂ネコ」タグでインスタにあげたら、予想以上のリアクションがついた。
コメント欄には、「なんかボス感ある」「この子、知ってる!」という声も。
日陰の階段に腰を下ろすと、ふとスマホの再生画面に目がいった。
西本係長が出ていた、ポッドキャスト。
『人生を変えた一冊』
指が勝手に再生を押していた。
「—その詩集に出会ってから、」
係長の声。穏やかで、少し照れたような話し方。
「変わったのは見え方かなぁ。景色、音、人、それぞれ見え方が、たぶん"戻ってきた"。本来見えていたものとして。しんどい思いをしている人のそばに—この詩集が、そっと置かれていたらいいな、と思っています。」
坂の下から、小さな風が吹いた。
田口は、イヤホンを外して空を見上げた。
雲が少しずつ流れていく。
三度深呼吸してから、一気に坂みちを駆け上がった。
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