信長の怨霊NV 英雄との出会い

Youichiro

第1話 魔王降臨


 昼下がりのキャンパスには、三限の終わりを告げる鐘が響き渡る。講義を受けた学生たちが思い思いの目的地へと歩き出す中、佐伯信也しんやは誰にも気づかれぬよう素早く教室を後にした。


 うつむき加減のまま足を速め、キャンパスの北にある駐輪場へ向かう。人混みを避けながら、まるで影に溶け込むように進むのは、彼にとってもはや習慣となっていた。しかし、そこには彼が恐れていた者が待っていた。


「おい、シンヤ! どこ行くんだよ?」


 声のした方を見ずとも分かる。背筋に冷たいものが走り、呼吸が浅くなる。最悪だ。奴らが、いた。


 安田翔——ショーと名乗る男が、いつもの取り巻きを引き連れて立ちはだかる。その背後には岡国彦、竹内秀美、高山友道。いずれも東京明峰大学付属高校からの推薦組で、キャンパスでも一際目立つパリピグループの中核をなす面々だ。


「よう、久しぶりじゃん?」


 クニこと岡国彦が軽薄な笑みを浮かべながら近づく。その目は笑っていない。逃げようとしても無駄だ。彼らのような連中に狙われた時点で、逃げ道などない。


「そろそろパー券、買ってもらわねえと困るんだけど?」


 トモが片手をポケットに突っ込み、ゆるく首をかしげる。その態度には不遜な余裕があった。信也の意志など最初から考慮されていない。


「いや……俺、もう行かないって言ったろ?」


 勇気を振り絞り、拒絶の意思を示す。だが、それはまるで子供の戯言のように一蹴された。


「行かない? へぇ……。でも、こいつ見てよ」


 ショーがスマホを掲げる。その画面に映し出されたのは、信也が以前、一度だけ参加したパーティの写真だった。暗い室内、ネオンが瞬く中で、酒を片手にした彼の姿が映っている。周囲には薬物に酔いしれる者たちの影。


「これ、ネットに上げたらどうなるかな?」


 ショーが言葉を区切るたび、信也の心臓が締め付けられる。これは、明確な脅迫だ。


「……っ」


 抗う言葉が見つからない。彼は確かにパーティに参加した。しかし、薬物には手を出していない。ただ、無知だった。無防備だった。だが、それが彼の非を消すわけではない。この写真が世に出れば、どんな噂が立つか——。


「ほら、観念しろって。五万、な?」


 ヒーこと竹内秀美が、小馬鹿にしたように微笑む。胸元の開いたシャツの襟をわざと指で引っ張り、ちらりと肌を見せながら囁く。


「来れば、いいことあるかもよ?」


 挑発的な言葉が耳にこびりつく。ゾクリとした嫌悪が背筋を駆け巡る。


「……無理だ。そんな金、ない」


 心底の拒絶を込めて言った。しかし、その答えはすぐさま覆される。


「何言ってんの? あるじゃん、ここに」


 クニが笑いながら信也のカバンを強引に奪い取る。慌てて取り返そうとするも、トモが腕を掴み、動きを封じる。


「おお、いいもん入ってんじゃん。財布、発見」


 カバンを探るクニの手が、無造作に財布を取り出し、中を覗く。小銭、カード、そして現金一万五千円。


「ちっ、全然足りねぇじゃん。けど、まあ仕方ねえか」


 ショーが財布の金を抜き取り、そのままポケットへ突っ込む。信也の抗議の声は、喉の奥で飲み込まれた。


「次会うときは残りの金を用意しとけよ? それからパーティにはちゃんと来いよ。じゃねえと、ほんとにこれ、ばら撒くから」


 ショーがスマホをひらひらと振る。信也は拳を握り締めた。だが、どうしようもない。逆らえば、次はもっとひどい目に遭う。


「んじゃ、またな」


 取り巻きを引き連れ、ショーは楽しげに笑いながら駐輪場を後にする。信也はただ、その背中を黙って見送ることしかできなかった。


 風が吹いた。本来安らぎを告げる春の風が、無力な彼の存在をあざ笑うかのように肌をさっと撫ぜた。


***


 信也は重い足取りで荻窪のマンションに戻った。


 この部屋は、父が彼の大学合格を祝って購入したものだった。中央線沿線の物件は資産価値が高いという投資目的もあったのだろうが、大学生の信也にとっては贅沢すぎる贈り物だった。


 部屋の扉を開けると、冷え切った空気が出迎える。広いリビングには、最低限の家具とパソコン、そして乱雑に散らかった生活用品があるだけだった。


 机の上には、昨日食べたコンビニ弁当の容器が無造作に転がっていた。片付ける気力もない。カーテンを閉め切ったままの窓からは、夕方の橙色の光がわずかに漏れ、薄暗い影を作っている。


 名古屋の実家では、広々としたダイニングに家族が集まり、温かい食事が用意されていた。優しい母の声、妹の無邪気な笑い声……それらはもう、遠い世界の出来事のように思えた。


 信也は深いため息をつき、鞄を床に放り出すと、そのまま椅子に倒れ込む。


「……もう、終わりだな」


 ぽつりと呟く。どれほど抗っても、ショーたちの支配から逃れる術はない。大学も、この部屋も、すべてが無意味に思えた。


 ふと、視線が机の上のパソコンに向かう。最新式のゲーム用デスクトップPC。電脳空間の中だけが信也の唯一の逃げ場だった。


 高校時代、全国プログラミングコンテストで入賞したこともある。市販のゲームを改造する技術は、ほぼ独学で磨いた。コードを解析し、プログラムの内部を弄り、自分だけの世界を作る——それが、今の彼に残された唯一のプライドだった。


 手が無意識にマウスを動かし、パソコンの電源を入れる。モニターが光を帯び、信也の現実逃避の扉が開かれた。

 画面に映し出されたのは、彼が改造した戦国シミュレーションゲーム。魔改造された織田信長が、圧倒的な能力を誇り、敵を容赦なく叩き潰していく。


「そうだ、ここでは俺が支配者だ……」


 クリック一つで大軍を動かし、城を焼き払う。勝利の音楽が鳴り響くたび、少しだけ心の奥にある虚無感が和らぐ。


 しかし、次の瞬間——。


 突然、画面が暗転した。


「え?」


 何かのバグか? 信也はキーボードを叩く。だが、次の瞬間、モニターに映 し出されたのは、燃え上がる本能寺の映像だった。


 —— 本能寺の変!


 「しまった……!」


 改造の際、ゲームの緊張感を持たせるために、イベントトリガーに乱数要素を入れていたのを思い出した。よりによって、このタイミングで信長が討ち死にするとは。


 画面の中で、信長の影が燃え尽きる。

 どっと疲れがにじみ出た。

 時計を見ると既に十時を回っている。

 明日は一限から授業があり、朝が早い。


「寝るか」


 パソコンをシャットダウンし、ベッドにもぐりこんだ。


***


 誰かが呼びかける声が聞こえる。


 ―― 起きよ!


 今度ははっきりと、静まり返った部屋に響くやや甲高い声を認識した。

 信也はびくりと肩を震わせて、ゆっくりと顔を上げる。

 そこには、白い襦袢を纏った男が立っていた。


「ヒッ!」


 軽く悲鳴を上げて、機械仕掛けの人形のように、信也は跳ね起きた。


「誰?」


 ―― 余は織田信長である。


 部屋に侵入した不審者は、先ほどまで信也のために、仮想世界を縦横無尽に蹂躙していた男の名を告げた。

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