第10話「それぞれの、胸の奥」

藤ヶ原グループ本社ビル――昼下がり。


昼休みを知らせるチャイムが鳴り、オフィスにわずかな静けさが広がる。

社員たちが続々と席を立ち、食堂やカフェへと散っていくなか、紫は自席で資料をまとめながら、ふと手を止めた。


視線の先、会議室の扉が開き、玲香が一人出てくる。


(……六条さん)


紫は、少しだけ迷った末、立ち上がった。


「六条さん」


呼びかけると、玲香がゆっくり振り向いた。


「……あら、藤木さん。奇遇ね」


「お疲れ様です。先日の件、お礼が言いたくて。報告書、助かりました」


玲香は、どこか意外そうな顔をしてから、ふっと柔らかく笑う。


「大したことじゃないわ。あなたの資料がきちんとしてたから、手直しも楽だったの」


軽い会話。でもその裏に、どこか探り合うような温度が流れる。


紫は言葉を選びながら続けた。


「……私、ちゃんとしなくちゃって思ったんです。あの時、源次さんが言ってくれたから」


玲香の表情が少しだけ動く。


「光さんに、何か言われたの?」


「……“自分の足で立ってみろ”って。まだ難しいけど、今はそれを信じてみようって思えて」


玲香は静かに頷いたあと、紫の視線をじっと見つめた。


「――彼って、そういう人よ。甘くもなく、優しくもなく、でも……誠実な人。きっと、あなたにも真っ直ぐな気持ちで向き合ってるわ」


その言葉に、紫の胸が少しだけ揺れた。


玲香は続ける。


「ねえ、藤木さん。あなたは、彼の何を見てる?」


紫は答えられず、少しうつむいた。


「私は……まだ、見えてないのかもしれません」


玲香はほんの少し寂しげに目を細めた。


「――それで、いいのよ。焦らないで」


そして玲香は、紫の肩にそっと手を置いて、静かに立ち去った。


紫はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


その日の夕方――。


光源次は社屋裏手の喫煙所のベンチで、一人コーヒー缶を傾けていた。


と、足音が近づく。


「……よ、源次」


玲香だった。


「久しぶりに会ったわね。忙しそうじゃない」


「そっちこそ。重役補佐なんて肩書き、似合ってるよ」


「皮肉?」


「褒めてんだよ。玲香はそういう女だって、昔から分かってた」


玲香は缶コーヒーを源次の隣に置き、自分も腰を下ろす。


しばし沈黙。


「ねえ、私たち、あのとき――」


玲香が口を開いたとき、源次はそれを遮るように言った。


「……今さら“あのとき”を振り返っても、意味はないよ。玲香が前に進んでるなら、それでいい」


玲香の横顔に、ほんの少し苦笑が浮かんだ。


「……変わらないね、そういうとこ」


「そっちこそ」


そして彼女は立ち上がり、振り返らずに歩き出した。


源次はその背を見送りながら、ぼそりとつぶやいた。


「……でもさ。変わってないってのも、悪くはないか」


ベンチの上に、並んだままのコーヒー缶が、冷たく光を反射していた。

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