第3話 微熱のようなもの
翌朝。紫はいつもより少し早く出社した。
鏡の前で、何度もスーツの襟を直し、髪を束ね直したことを、彼女は“仕事熱心な自分”のせいだと思い込もうとしていた。しかし、それが昨夜の光源次との時間に起因していることは、鏡の中の顔が一番知っていた。
(たった一度の会話で浮かれるなんて…私、何やってるんだろう)
自分を諫めるようにデスクに向かう紫。しかし、始業のチャイムが鳴る前にふと背中がぴんと伸びた。近づく足音に、胸がまた、規則正しさを失っていく。
「おはよう、紫さん。」
源次の低く優しい声が、耳元に響いた。
「お、おはようございます…っ。」
声が裏返りそうになるのをなんとか抑えて挨拶する。昨日のカフェの面影が、源次の表情に残っている気がして、目を合わせられない。
「早いね。新人さんの鏡だ。」
「いえ……まだ慣れなくて。」
「うん、でも君は“慣れない”ことを恐れずに前を見てる。それって、簡単なようで難しいことだよ。」
その一言が、また紫の胸に火を灯す。ささやかな褒め言葉。けれど、彼から向けられるそれは、なぜか特別に響くのだった。
同じ経営企画部の女性社員・葵は、その様子を遠目に見ていた。
(また“新人”か…)
葵はかつて源次の婚約者だった。華やかで冷静沈着なキャリアウーマンであり、今もその美貌と実力で部署を牽引する存在。彼女のプライドは高く、誰よりも源次の“公私”に敏感だった。
「あの子……名前、藤木紫だったかしら。」
同僚から聞いた名前を思い出し、無意識に紫を追う視線に険が混じる。
(また、彼女も“織られる側”になるの?)
葵の唇が、わずかに歪んだ。
その日、部署で行われた企画書レビュー会議でのこと。
「……以上が藤木さんの提案です。」
会議の中で、紫は新人ながらも小さな提案を発表する機会を与えられていた。手は震えていたが、声はしっかりと前に出ていた。
「ふむ、悪くない。」
「数字の詰めが甘いかな。」
厳しい意見が交差する中、源次が静かに口を開いた。
「着眼点はいいと思います。数字の詰め方は、これからの経験で補える。何より、現場のリアルな視点が反映されていた。それは意外と見落とされがちだ。」
その発言に会議室が静まる。重役たちのうなずきも増えた。
紫の目が、驚きと感謝の入り混じった光で揺れた。
(どうして、そんなに……)
源次の視線が一瞬だけ紫と重なる。何かを言いかけるようで、何も言わない。そしてまた、“上司の顔”に戻る。
その日の帰り道。紫はふと立ち止まり、ビルの窓に映る自分の姿を見る。
(光さんは、私にとってただの“憧れ”でいるべき人だったはずなのに……)
手に提案資料のファイルを握りしめたまま、頬を撫でた春風の温度が、少し熱を帯びているような気がした。
同じ頃。源次もまた、藤ヶ原タワーの最上階のバーラウンジで一人、グラスを傾けていた。
「……ああいう目、久しぶりに見たな。」
誰かに見られる、まっすぐで純粋な視線。
それは、彼が長らく忘れていた“恋のはじまり”を思い出させるような光だった。
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