第十六話∶予期せぬ共闘
張り詰めた静寂が、まるで目に見える圧となって、石造りの一室に充満していた。健太は、隣に座るあかりの小さな手が、自身の服の袖を頼りなく掴んでいるのを感じた。彼女の細い指先は冷たく、かすかに震えている。昨夜、突如として現れた異形の魔獣の恐怖が、彼女の幼い心に深く刻まれているのだろう。
部屋の出入り口には、漆黒の甲冑を身にまとった巨躯のガルムが、まるで巨大な彫像のように仁王立ちしている。その全身から発せられる威圧感は、言葉を発せずとも、この静けさの背後に、どれほどの脅威が迫り来ているのかを、否応なしに意識させた。外の世界で何かが起こっている。それは、この部屋の重苦しい空気感だけで十分に伝わってきた。
(五キロ先に、昨夜の魔獣と同じ、いや、それ以上のエネルギー反応が複数……?)
健太の心臓は、まるで激しい雨音のように、再び早鐘を打ち始めた。昨夜の悪夢のような出来事は、決して単独の、偶発的なものではなかったのだ。事態は、彼が想像していたよりも、遥かに深刻な局面を迎えている。
ルナリアの、普段の凛とした美しさの中に、今はっきりと見て取れる冷徹な表情が、その事実を雄弁に物語っていた。「決してこの部屋から出るな」という、彼女の低い声が、健太の胸に重くのしかかる。それは命令であり、同時に、彼とあかりを守ろうとする、彼女なりの強い意志の表れでもあったのだろう。
「大丈夫だよ、あかりちゃん」
震える声で、健太はそう言った。しかし、自分の声もまた、わずかに震えていることに気づき、内心で苦笑した。彼女の小さな手が、彼の服の袖をさらに強く握りしめる。その頼りないほどの力強さが、あかりの抱える計り知れない恐怖の大きさを、痛いほど伝えてくるようだった。
(もし、俺に、あの時のような力があるなら……)
昨夜、あかりが魔獣の鋭い爪に脅かされた、まさにその瞬間、彼の内から溢れ出し、咄嗟に放たれた、眩いばかりの光。それは、今もまだ、現実のことだったのか、それともただの悪夢だったのか、判然としないほど、非現実的な出来事に感じられる。平凡な、どこにでもいるような高校生だった自分が、そんな奇跡のような力を持っているなどとは、つい数時間前まで、考えもしていなかった。
しかし、隣にいるあかりの温もりを感じる時、彼女の小さな存在を守りたいという、切実で、そして純粋な感情が、彼の内から、まるで湧き水のように溢れ上がってくる。彼女の恐怖が、彼の奥底に眠っていた何かを目覚めさせたのかもしれない。
「健太くん……怖いよ……」
あかりの大きな瞳が、不安げに揺れながら、健太を見上げる。その潤んだ瞳に映る自分の姿は、どこか頼りなく、情けなく思えた。彼女の恐怖を拭い去るだけの、確固たる強さが、今の自分にはまだ足りない。その事実が、健太の胸を締め付けた。
(ルナリア様は、俺のあの力を『希望の光』と言った。そんな大それたものじゃない。ただ、この小さな、大切な存在を守りたいだけなんだ)
その時、健太の胸の奥深くで、昨夜、あの光を放った瞬間に感じた、温かく、そして優しい光の感覚が、微かに蘇ってきた。それは、まるで静かに燃える小さな炎のように、彼の内側で、小さく、しかし確かに存在している。それは、彼の守りたいという強い願いに呼応するように、静かに、しかし着実に、その熱を増していくようだった。
「大丈夫。俺が、絶対に守るから」
今度は、はっきりと、そう言えた。自分の声に、かすかながらも、確かな決意が宿っているのを感じた。それは、張り詰めた静寂を破る、力強い言葉だった。あかりは、少し驚いたように目を丸くし、健太の顔を見つめた。その小さな瞳に、ほんのわずかだが、不安の色が薄れ、代わりに、一縷の安堵の色が灯ったように見えた。
重苦しい沈黙が、再び部屋を満たす。ガルムは、相変わらず、ドアの前で微動だにしない。その存在は、依然として、目に見えない壁のように、二人を外界から隔てている。窓の外では、満月が、雲一つない夜空にぽっかりと浮かび上がり、静かに、しかしどこか冷やかに、地上を照らしていた。その幻想的な光景とは裏腹に、部屋の中には、目に見えない緊張感が、まるで濃密な霧のように漂っている。
健太は、あかりの手を握る手に、さらに力を込めた。彼女の小さな温もりが、彼の心に、消えかけていた勇気の灯を、再び静かに灯してくれる。彼女の存在こそが、今の彼にとって、唯一の支えだった。
(敵は、想像を遥かに超える知略と力を持っている可能性がある、とルナリア様は言った。一体、何者なんだ……?)
昨夜、突如として現れた魔獣の、あの異質な、そして強烈な瘴気。ガルムの、普段の冷静さを失ったような警戒の色。そして、何よりも、あの絶対的な魔王であるルナリアが、普段の氷のような冷静さを欠いた、焦燥にも似た厳しい表情。それら全てが、今回の敵が、ただの魔物などではない、尋常ではない、恐るべき存在であることを示唆していた。
その時だった。重苦しい静寂を破り、部屋の扉が、信じられないほど静かに、音もなく開いた。
「健太様、あかり様。魔王陛下がお呼びです」
声の主は、侍女のミーナだった。彼女の、いつもは無表情に近い顔には、ほんのわずかながらも、安堵の色が見て取れた。それは、ルナリアの呼び出しが、事態が少しでも好転した兆しなのかもしれない、と健太に思わせた。
「ルナリア様が?」
健太は、予期せぬ展開に、少し驚いたように尋ねた。あれほど危険が迫っているはずなのに、なぜ自分たちを、この安全なはずの部屋から呼び出すのだろうか。
「はい。お二人に、直接お話があるとのことです」
ミーナは、丁寧に頭を下げた。その仕草は、いつもの丁寧さの中に、わずかながらも、何かを気遣うような優しさが感じられた。あかりは、健太の服の袖を握る手を緩め、不安そうな表情で、彼の顔を見上げた。彼女の瞳は、再び揺れ始めている。
「行きましょう、あかりちゃん」
健太は、不安げな表情を浮かべるあかりに、できる限り優しく微笑みかけ、立ち上がった。彼女の小さな手を、今度はしっかりと握り返す。ガルムは、無言で二人を見送り、再びドアの前で、その巨体を、まるで動くことのない壁のように、静止させた。
ミーナに導かれ、二人は、再びルナリアの執務室へと向かった。廊下には、いつもよりも明らかに多くの、屈強な魔族兵士たちが、物々しい雰囲気で警備に当たっている。彼らの鋭い眼光や、鎧が擦れる音、そして張り詰めた空気感は、事態の異常さを、言葉以上に雄弁に物語っていた。健太は、固唾を飲みながら、あかりの手を強く握りしめた。
執務室の重厚なドアが、ミーナによって静かに開かれる。窓から差し込む満月の光が、室内を幻想的に照らし出していた。その光の中に、ルナリアが、静かに佇んでいる。その完璧なまでの美しさを持つ顔には、先ほどの険しさはなく、代わりに、何か深く思案しているような、憂いを帯びた表情が浮かんでいた。
「健太くん、あかり。よく来たね」
ルナリアの声は、いつもの威厳の中に、ほんのわずかながらも、柔らかな、そして温かい響きが含まれていた。それは、彼らをただの客人としてではなく、もっと近い存在として認識しているかのような、優しい声色だった。
「ルナリア様……」
健太は、その声に、いくらか緊張を和らげながらも、彼女の前に一歩進み出た。あかりは、まだ不安が拭いきれない様子で、健太の背に隠れるように、彼の服の裾を、小さな手でそっと握っていた。
「ガルムからの報告は聞いた。新たな敵の出現。そして、君の力のこと……」
ルナリアは、静かに、しかし真っ直ぐに、健太を見つめた。その吸い込まれるような翡翠の瞳は、まるで彼の魂の奥底に潜む、まだ見ぬ何かを見透かそうとしているかのようだった。その視線は、優しくもありながら、どこか厳しさも帯びていた。
「あの……俺の、あの力は、一体……?」
健太は、改めて、昨夜の、まるで夢のような出来事について尋ねた。自分の中に、突如として宿った、この不思議な力。それは、一体何なのだろうか。なぜ、自分のような平凡な人間に、そんな力が宿ったのだろうか。彼の心は、疑問と戸惑いで満ちていた。
ルナリアは、ゆっくりと、深く頷いた。その仕草は、彼の問いに対する真摯な答えを示唆していた。
「それは、まだ私も完全に理解できているわけではない。だが、君の放った光は、純粋な悪意を打ち砕く、聖なる力に近いものだと感じている」
聖なる力。その言葉は、再び、健太の胸に深く響いた。自分のような、どこにでもいるような平凡な人間が、そんな、まるで物語の中にしか存在しないような力を持っているなどとは、やはり、どうしても信じられない。それは、彼にとって、あまりにも現実離れした言葉だった。
「だが、その力は、諸刃の剣となる可能性も秘めている。制御を誤れば、君自身を傷つけることにもなりかねない」
ルナリアの言葉には、明確な心配の色が滲んでいた。彼女は、健太の力を、単なる戦力として見ているのではない。彼の身を、心から案じているのだ。その眼差しは、冷徹な魔王というよりも、むしろ、大切な存在を気遣う、優しい姉のような温かさを持っていた。
「だから、健太くん。これから、君には、自分の力について、もっと深く知ってもらう必要がある」
ルナリアは、真剣な眼差しで、再び健太を見つめた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「そして、私たちと共に、この魔界を脅かす新たな敵に、立ち向かってほしい」
その言葉は、健太にとって、あまりにも予想外だった。魔界の王であるルナリアと共に、戦う?平凡な、何の取り柄もない自分が、そんな大それたことができるのだろうか。彼の心は、驚きと戸惑いで大きく揺れ動いた。
しかし、隣で不安そうに、彼の服の裾を握りしめているあかりの、小さな、しかし確かな温もりを感じた時、健太の心に、迷いはなくなった。彼女の恐怖を、もう二度と見たくない。彼女を守れるのは、今の自分しかいない。
(俺は、あかりちゃんを守りたい。そして、ルナリア様の力になりたい)
昨夜、あかりを守りたいという強い感情と共に、彼の内から湧き上がった勇気の炎は、彼の胸の中で、静かに、しかし着実に、さらに強く燃え上がり始めていた。それは、戸惑いながらも、自分の置かれた運命を受け入れようとする、一人の、ごく平凡な少年の、静かな、しかし揺るぎない決意の表れだった。
満月が静かに、そして優しく照らす、静謐なルナリアの執務室で、平凡なモブ男子である健太と、心優しい少女あかり、そして、孤高の魔王ルナリアの、新たな物語が、静かに、しかし確かに、幕を開けようとしていた。迫り来る、未知の脅威。彼らに託された、秘められた力。そして、三人の間に、まだ微かではあるが、確かに芽生え始めた、温かい絆。それらは、これから、どのような波乱万丈な未来を描き出すのだろうか。
(第十六話 完)
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