第十三話 予期せぬ来訪者と、揺らぎ始めた日常

ルナリアの提案から数日後、健太とあかりは、すっかり魔王の執務室の一員となっていた。もちろん、魔法が使えるわけではない二人にできることは限られている。書類の整理を手伝ったり、来客にお茶を出したり、庭園で摘んだ花を飾ったりと、地味な作業が中心だ。しかし、それでも二人は、自分がルナリアの役に立っているという実感に、ささやかな喜びを感じていた。

健太は、ルナリアが目を通す書類の内容に、時折、現代日本の知識が役立つことに気づき始めた。例えば、複雑な流通網の図を見て、「これって、まるで現代のサプライチェーンみたいですね」と呟いたところ、ルナリアが興味深そうに身を乗り出し、詳しく質問してきたことがあった。異世界には存在しない概念に、魔王が知的な好奇心を刺激されている様子を見るのは、健太にとって新鮮な驚きだった。

あかりは、その優しい気遣いで、執務室の雰囲気を和らげる役割を担っていた。緊張した面持ちで訪れる魔族の使者たちに、柔らかな笑顔で応対し、温かいお茶を出す彼女の存在は、ピリピリとした空気を中和する清涼剤のようだった。ガルムも、あかりの穏やかな物腰には、どこか心を許しているようで、時折、彼女の足元に静かに寄り添う姿が見られた。

そんな、穏やかな日常が流れ始めたある日の午後。執務室に、これまでとは明らかに異なる、焦燥感を帯びた足音が近づいてきた。

「魔王陛下!大変です!」

扉が開かれると同時に、息を切らせた若い男性の魔族が飛び込んできた。見慣れない顔だった。

「落ち着きなさい、ライアス。一体何があったのですか?」

ルナリアは、いつもの冷静さを保ちながらも、その声にはわずかな警戒の色が滲んでいた。

「は、はっ!南の国境付近で、大規模な魔力反応が確認されました!観測史上、例を見ないほどの強大な力です!」

その言葉に、執務室の空気が一瞬にして凍り付いた。健太とあかりは、ただ事ではない事態に、息を呑んで顔を見合わせた。ガルムの金色の瞳も、鋭く光を帯びた。

「詳細を報告しなさい。」ルナリアの声は、低い調子で、部屋に響いた。

ライアスは、震える声で続けた。「詳しいことはまだ調査中ですが、その魔力は、単一の存在から発せられている可能性が高いとのことです。そして……その形状が、古代の文献に記された、『災厄の魔獣』と呼ばれる存在のものと酷似している、という報告が……!」

「災厄の魔獣……?」

ルナリアは、翡翠の瞳を深く閉じ、低い声で呟いた。その表情には、これまで見たことのないほどの、深刻な憂慮の色が浮かんでいた。

健太は、その聞き慣れない言葉に、胸騒ぎを覚えた。(災厄の魔獣って、一体何なんだ?昨日の敵よりも、ずっとヤバそうな感じがする……)

あかりは、不安げに健太の袖をそっと引いた。その小さな手のひらの冷たさが、彼女の緊張を物語っていた。

「健太くん、あかりさん。」

沈黙を破ったルナリアの声は、低く、しかし、しっかりと二人の耳に届いた。「あなたたちは、一旦、自室に戻っていてください。この事態が落ち着くまで、不用意に外には出ないように。」

その言葉には、二人を危険から遠ざけようとする、明確な配慮が感じられた。

健太は、何か言おうとしたが、ルナリアの厳しい表情を見て、言葉を飲み込んだ。今は、彼女の指示に従うのが最善だと判断したのだ。

「わかりました。」

あかりも、小さな頭を縦に振った。

二人は、ガルムに一瞥されながら、黙って執務室を後にした。廊下を歩きながら、健太の胸には、不安が渦巻いていた。魔王ルナリアでさえ、これほど深刻な表情をする敵とは、一体どれほど力を持っているのだろうか。そして、自分たちのような、何の力もない人間は、一体何ができるのだろうか。

自室に戻ると、あかりは、不安そうに窓の外を見つめていた。庭園の美しい景色も、今はどこか心細く見えた。

「ねえ、健太くん……大丈夫かな?」

あかりの震える声に、健太は、確信を持って答えることができなかった。しかし、彼女の不安を少しでも和らげようと、努めて明るい声を出した。「大丈夫だよ、あかり。月影様は強いから。きっと、何とかしてくれる。」

そう言いながらも、健太の心には、昨日の夜、庭園で感じた、あの冷たいような気配が蘇っていた。もしかしたら、あの時感じたのは、この「災厄の魔獣」の前兆だったのかもしれない。

その夜、館全体は、異様な静けさに包まれていた。普段は、どこからか聞こえてくる魔族たちの話し声や、小さな音も、一切聞こえない。張り詰めた空気は、昨日の夜よりも、さらに濃密になっていた。

健太とあかりは、それぞれの部屋で、不安な時間を過ごしていた。寝ようとしても、不安が意識を包み込み、なかなか眠りにつくことができない。

ふと、健太は、ルナリアが言った言葉を思い出した。「あなたには、あの、常軌を逸した魔力を、他の誰よりも早く、そして強く感じ取る、特別な力があるのかもしれません。」

(俺に、そんな力があるっていうのか……?もし、本当だとしたら、今、何かを感じるはずじゃないのか?)

健太は、集中して、周囲の気配を感じ取ろうとした。しかし、昨日のような、明確な不快感は、何も感じない。ただ、館全体を覆う、重苦しい雰囲気だけが、彼の胸を締め付けていた。

その時、微かに、しかし確かに、昨日と同じような、冷たいような気配を感じた。それは、庭園の方から、ゆっくりと近づいてくるようだった。

(まただ……!昨日の残滓とは違う……もっと、強い、嫌な感じだ!)

健太は、不安に心臓を激しく打たれるのを感じた。もし、この気配が、「災厄の魔獣」と関係があるのだとしたら……

いてもたってもいられなくなった健太は、ベッドから飛び起き、慎重に扉を開けた。廊下は、薄暗く、長い。遠くから低い、脅威的なうなり声が聞こえたような気がした。

(まさか……もう、ここまで来ているのか?)

健太は、無分別にも、その気配のする庭園へと足を向けた。あかりに知らせるべきか迷ったが、不安がそれを許さなかった。何か、破滅的なことが起こる予感がして、いてもたってもいられなかったのだ。

庭園に出ると、満月が、昨日よりもさらに明るく、不気味に光り輝いていた。昨日、ルナリアが物思いに耽っていた東側に目を凝らすと……

そこにいたのは、昨日の敵ではなかった。

巨大で、半透明な、黒い影が、地面からゆっくりと立ち上がっていた。それは明確な形を持たず、絶えず形を変えているようだったが、その中心には、赤く光る邪悪な瞳のようなものが存在した。

(これが……「災厄の魔獣」なのか……?)

健太は、その圧倒的な魔力に、息を飲んだ。昨日の敵の魔力など、比較にならないほどの、圧倒的な、邪悪なエネルギーが、周囲の空気を震わせていた。

その時、魔獣の赤い瞳が、ゆっくりと健太の方を向いた。邪悪で無機質な光が、健太の魂を吸い取るように感じられた。

恐怖で足がすくみ、一歩も動けない健太の意識の中で、昨日聞いたような、もっと多く、もっと必死な叫び声が、大きく響き渡った。それは、奪われた魂魄たちの、最後の叫びのようだった。

そして、その叫び声と共に、健太の胸に、昨日とは比べ物にならないほどの、激しい苦痛と、怒りが流れ込んできた。それは、まるで、何十、何百もの他人の感情が、同時に押し寄せてきたかのようだった。

「う……ああ……!」

健太は、胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。強烈な感情の奔流に、意識が溶かされそうになる。

その時、背後から、冷たい、しかし聞き慣れた声が響いた。「健太くん!危ない!」

振り返ると、そこに立っていたのは、翡翠の瞳を冷ややかに輝かせ、その表情には、明らかな不安の色を浮かべた、ルナリアだった。彼女の長い、銀色の髪が、夜風に蛇のように舞っている。その手には、昨日見た、黒檀の杖が、明るく光を放っていた。

ルナリアは、躊躇うことなく、杖を魔獣に向け、強力な魔力を放出した。黒い、境界のないエネルギーの奔流が、魔獣の半透明な体を直接打ち据えた。

しかし、魔獣は、わずかに体を揺るがせただけで、まるで影響を受けていないようだった。赤い瞳は、冷たくルナリアを睨みつけている。

「まさか……これほどまでに、物理的な実体を持たないとは……!」

ルナリアの声には、明らかな衝撃の色が見られた。

健太は、激しい感情の波に意識が朦朧としながらも、目の前の光景を必死に見つめていた。(月影様でも、敵わないのか……?そんな……)

その時、健太の意識の中で、さらに大きく、さらに必死な叫び声が響き渡った。そして、その叫び声に応えるように、健太の胸の奥底から、昨日感じた不快感とは全く異なる、熱い、そして強力なエネルギーが、ゆっくりと湧き上がってくるのを感じた。

それは、まるで、眠っていた、何かが、目覚め始めたかのような感覚だった。

(なんだ……この力は……?)

健太は、自分の体の中で起こっている異変に、戸惑いを感じながらも、その熱いエネルギーが、目の前の邪悪な魔獣に、これまでにない怒りを掻き立てるのを感じていた。

そして、その怒りに突き動かされるように、健太は、無分別にも、ルナリアと魔獣の間に、一歩踏み出した。「月影様!下がってください!」

彼の声は、自分のものではないように、低い、しかし、奇妙なほどの威圧感を帯びていた。

ルナリアは、驚愕の表情で、健太を見つめた。彼女の翡翠の瞳には、理解不能な光が宿っている。

魔獣の赤い瞳も、現れた、小さな人間に、興味を示すように、ゆっくりと向けられた。

その瞬間、健太の体から、弱いながらも、昨日の敵が放っていた黒い魔力とは全く異なる、黄金の光が、ゆっくりと立ち上り始めた。それは、弱いながらも、温かい、そして、どこか懐かしいような、不思議な光だった。

魔獣は、その光を感知した瞬間、明らかに動揺したように、半透明な体を後ろに引いた。赤い瞳には、明らかな警戒と、そして……微かな恐怖の色が浮かんでいた。

「な……なんだ、これは……?」

ルナリアは、信じられないものを見るような表情で、健太から立ち上る黄金の光を見つめていた。彼女の長い銀髪が弱い黄金の光を反射し、幻想的な光景を作り出している。

健太自身も、自分の体に起こっている異変に、完全に戸惑っていた。しかし、その黄金の光が、目の前の邪悪な存在に対して、明らかな 対抗する力を持っていることを、直感的に理解していた。

(俺に……こんな力が……?)

黄金の光は、ゆっくりと強さを増していく。それに比例して、魔獣の半透明な体は、不安定に揺らぎ始めた。赤い瞳の警戒の色も、ますます強くなっている。

その光景は、まるで、弱い光が、闇をゆっくりと押し返していく、神聖な儀式を見ているようだった。

ルナリアは、沈黙を破り、低い、しかし、震える声で呟いた。「まさか……あなたの中に……そんな力が眠っていたとは……」

健太は、ルナリアの言葉の意味を理解することができなかった。しかし、自分の体に宿る、温かい、そして強力なエネルギーが、目の前の邪悪な存在を明らかに脅かしていることを、肌で感じていた。

そして、その温かい光は、健太自身の内なる怒りと共鳴するように、ますます明るく輝き始めた。

果たして、何の力も持たないはずの普通の高校生、健太の中に眠る、この奇妙な、しかし強力な力の正体とは一体何なのか。そして、 予期せず現れた「災厄の魔獣」の脅威に、健太とルナリアは、どのように立ち向かっていくのだろうか。二人の、奇妙で、そして少し温かくなってきた共同生活は、今、新たな、そしてはるかに深刻な局面に突入しようとしていた。


(第十三話 完)

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