二、狭いセカイ
生まれてから今までこの家から出たことがない。両親以外の村人に会ったこともない。物心ついた頃からずっとこの部屋に幽閉されており、食べる物も決められた物だけ。肉や魚は一切与えられなかったため、芋や大根などの野菜を調理したもの、漬物、木の実や果物が、朝と夜に一度ずつ出された。
外の光を浴びたことがないかのような生白い肌。色素の薄い大きな瞳。腰のあたりまである長い薄茶色の髪の毛は後ろでゆるく結ばれていて、先の方が少しくせがあるせいかうねっている。長い年月ここにひとり幽閉されているにも関わらず、その表情には闇も翳りもまったく見当たらない。
山神様の花嫁として捧げられるために生かされている、と半ば諦めているせいか。それとも単純に純真無垢で朗らかな性格のためか····。
閉じられた扉の向こう側。食事はその下の方に付いている小窓から母親によって与えられる。お盆に乗せられた三つほどの小皿と、お茶碗に半分ほどの御飯、少しだけ具の入った汁物。いつもの食事だ。
幼い頃からこのように少ない食事だったが、動くこともほどんどないためじゅうぶんで、「いただきます」と「ごちそうさま」を心の中で呟いて食事は終わる。
食べ終わって空になった皿を乗せたお盆を小窓の前に置き、しばらくするとその小窓から手が伸びてくる。それはいつもの細く白い指で、冬の頃は
「お母さん、いつもありがとう」
声をかける。
両親とだけは言葉を交わしても良い、触れてもよいとされていたが、いつの日からかそれさえも普通にできなくなっていた。なので、久々に出した声がちゃんと発せられたことに、自分でも驚く。
もう数ヶ月はお互いに言葉を交わしておらず、かけておいて戸惑ってしまう。そんな
「······寒くなってきましたから、あとで火鉢を用意しますね、」
久々に聞いた母の声はどこかよそよそしく、楪はなんだか寂しいと思ったが仕方のないことだと諦める。自分の子であるはずなのに、どこか他人行儀な様子が感じ取れて悲しい気持ちにはなったが、声をかけたことに後悔はなかった。
もうすぐ十五歳の誕生日を迎える。それはこの住み慣れた狭いセカイからの"お別れ"を意味していた。こうやって毎日気を遣ってくれている母親や、ほとんど声を聞いたことのない父親との別れでもある。期待と不安と。そして、空白。
なにももたない自分は、これからどうやって生きていけばよいか。
十五歳になる数日後には、とうとう山神様に捧げられてしまう。花嫁という名の贄として、生まれた時から決められていたこと。自分の運命を呪ったことはない。
元々家の外に出してもらえず、常に両親に監視されていたのだと今ならわかる。ここに隔離されたのは五歳くらいの頃。泣いても喚いても懇願してもここから出してはもらえなかった。
それくらい、山神様の贄になるということはこの村では重要なことで、それに生まれた瞬間から選ばれてしまったことが、孤独のはじまりだった。
楪のセカイは、最初から家の中以上にはなかったのだ。狭いセカイ。でもそれが楪にとっては当たり前で。日常で。普通なのだと。
外に出てはいけない。他人と言葉を交わしてはいけない。触れられてもいけない。そして今はもっと狭い。隔離された四畳半の空間がすべてだった。
薄暗い部屋には行灯のぼんやりとした橙色の灯火がひとつだけ。あの小窓から差し込む光も限られている。その肌は陽を浴びることがないため生白い。
部屋に唯一ある天井に近い小窓から見える空。そこから見えるものは、楪の外のセカイへの好奇心を無限にさせた。
鳥の声。生き物の声。ひとの声。風の音。雨の音。音だけはいつも鮮明に耳に届く。
必要最低限の物以外なにもない部屋に、ひとり。誰かに助けを求めることもない。なぜなら、ずっと言い聞かされてきたからだ。
自分は山神様のモノで、それ以外に触れられれば穢れ、真の役目を果たせなくなる。それは誰も幸せにはしないし、むしろ皆が不幸になってしまうのだ、と。
だからこれが自分の運命で、当たり前のことで、それ以外はすべて諦めるしかないのだと。そう、いつからか思うようになっていた。
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