シャーリーとジョンの魔訶不思議な冒険
浅月そら
「わたしは、シャーロット・ロール。ただの臓器愛好家だ」1-1
19世紀。ロンドン。
雨に濡れた石畳を踏みしめて、ジョン・グラッドソンはチッと舌を打った。
「……ついてない」
雨の水蒸気と滞留するガスが産み出す濃厚な霧が視界を圧迫する。
ガス灯の淡い橙色が濃霧の中に滲んだ光を押し広げる中を、ジョンはフロックコートの裾を翻して早足に進む。時折背後を振り返り、人気が無いことを確認する。
左手に下げた黒い鞄がずしりと重い。初冬の冷気が肌を刺す。口から吐き出す白い息も、今は濃霧に紛れてしまっている。
左手を流れているであろうテムズ川は、夜の闇に沈んで影も見えない。ここ数日降り続いた雨で、水位はかなり上昇していることだろう。
そんなことを考えていた矢先。
「おい。そこでなにをしている」
突然、高圧的に咎めてくる男の声に、ジョンは無表情のまま驚いた。
目を向けると、闇の中に二人分のシルエットがあった。ガス灯の薄明かりに、特徴的な三角形の帽子が浮かび上がっている。カストディアンヘルメットにマント、屈強な体躯は間違いなく、スコットランドヤードの警官のものだ。
体型を一目見て、ジョンは密かに安堵の息を吐いた。
(さっきの人物と違う)
ジョンはとっさに右手でシルクハットを少し持ち上げて挨拶の意を示し、にこやかに笑って見せた。綺麗なブロンドの髪に白い肌は、一見すれば好青年に見えなくもない。
「これはこれは、雨の中お勤めご苦労様です。ぼくは怪しい者ではありません。見ての通り、医者です」
そう言って、黒い大きな鞄を掲げて見せる。
「中は医療セットなのですが、大切な道具を雨に濡らしたくないので、中身の検分はご勘弁を。急な患者を診ての帰りです」
もちろん嘘は言っていない。事実、ジョンは医師を生業としている。
警官の一人が、持っていたランプを掲げてジョンの顔を照らした。
顔を見られたことと横柄な態度に、ジョンの中で殺意が沸いた。
それと同時に、ランプを掲げた警官の顔が照らし出されると、ジョンは素早くその顔を視診した。
「失礼ですが、あなた、ちょっと顔色が黒いですね。肝臓がやられているようだ。酒の飲みすぎじゃないですか?」
視診された警官はランプを下げると、左手で鳩尾の辺りを軽く擦った。
もう一人は「ハハハ」と陽気に笑って、視診されたほうの警官の背中を叩く。
「おい、こいつは若いが、名医だぞ。お医者様の言うことには素直に従うもんだ」
視診された警官は恨めしそうにジョンを睨みながら、
「行っていいぞ」
と不機嫌に言って、シッシッと追い払うように手を振った。
なんならその肝臓を今すぐ抉り出してやろうか、という言葉を喉の奥で飲み込む。
「どうも」
表面的には愛想良く挨拶をして、ジョンは背を向ける。
そのとき、背後から複数の足音と喧騒が聞こえた。遠くの路地から別の警官が二人、何事か叫びながらガス灯の下に飛び出してくるのが見えた。鈍足の丸い体躯は、ジョンを追っていた警官のものだ。
「おいあれ、ハロルド警部補じゃないか?」
「なにかあったのか」
今しがた、自分に職務質問をしてきた警官二人も、いきなり現れた身内に気付いて、何事かと戸惑っている。
「やれやれ。つくづく運が悪いな……」
「ん? なにか言っ――」
ジョンはランプを持ったほうの警官の喉仏に素早く拳を叩き込んだ。続けて肝臓の位置を殴ると、男は声を上げることもできずに昏倒した。
もう一人の警官は、振り向くと同僚が倒れたのだから、さぞかし驚いたことだろう。
それでも、ジョンは声を上げさせる間を与えない。
黒い鞄を地面に置くと、驚いている警官のマントを素早く掴んでその首に巻き付け、思いきり締め上げた。左手にマントを巻き付けるようにして締め上げているため、右手が空いている。空いた右手で警官の鼻と口を塞いで、わずかな呻き声も抑え込んだ。
ガス灯の下に飛び出してきた警官は、まだこちらの異変に気づいてはいない。その数秒後、ジョンが首を絞めていた警官は白目をむいて脱力した。
「ぼくが医者でよかったな。おかげでおたくらは死なずに済んだ」
鞄を拾い上げ吐き捨てるように言い残して、ジョンは踵を返して市街地の方へ入っていった。
チープサイド通りに出ると人目が多くなった。人目といっても、家もないような乞食や浮浪者、もしくは酔っぱらいかギャング紛いの若者の群れでしかない。目を付けられると厄介なうえに、奴等は金さえ手に入れば敵にも味方にもなる。金を渡されて、警察に自分の情報が伝わるのは不味い。ジョンは影から影を渡り歩くように路地を歩んだ。
ベイカー・ストリートに入ったところで、一軒の屋敷を見つけた。規模からして下宿として他人に貸し出している類いの家だとわかる。
「……ここにするか」
一時的に姿を隠すには丁度いいだろうと考え、ジョンは家の前の短い階段を上がってドアの前に立った。呼び鈴を鳴らすこともなく、ドアノブに手をかける。
すんなりと開いたことで、ジョンの口角は自然と上がった。
「だと思った」
活動時間の違う者が共に複数人で暮らしているのだから、各部屋の扉は施錠されていても、共同の出入り口は開放されていることが多い。
中を見て、ジョンは眉をひそめた。忍び込んだはいいが、玄関ホールは真っ暗だった。人の住んでいる様子はない。
「廃屋だったか?」
濃霧と雨とで外観をしっかりと確かめる余裕はなかった。しかし、ここに入ろうと思ったからには、人の気配を感じたはずだ。定かではないが、二階は電気が点いていたと思われる。
ジョンは階段を軋ませて二階へ上がった。二階には三つの部屋があり、そのうちの一つから薄く明かりが漏れている。
革靴の底でコツコツと音を立て、明かりのついた部屋の前まで移動したジョンは、暗い廊下の奥を凝視してゾッと背筋を粟立たせた。
一番奥の部屋の扉が、チェーンと南京錠でがちがちに固められているのが、かろうじて確認できた。
(なんだ、あの部屋は……)
明かりのついた部屋を訪問することも忘れて、おぞましいなにかを封印しているかのような部屋を凝視していると、
「入りたまえ」
不意に中から声が聞こえて、ジョンはハッと我に返った。その声音が幼い少年とも少女ともつかないもののように聞こえて、警戒よりも興味を引かれた。
「失礼」
ひとこと声をかけて、ジョンは扉を開いた。
十畳ほどの室内を、悪臭が満たしていた。薬品系の瓶や解剖途中の動物の死骸などが散乱している。職業柄腐敗した臭いには慣れているはずのジョンも、思わず顔をしかめるくらいの大悪臭だ。
「素敵な香りの部屋だな」
皮肉を言うと、窓辺のロッキングチェアが揺れた。
雑然と物が散らかる部屋に、ほとんど同化するように置かれていたため、そこに人が居るとは気づかなかった。
「ああ。腐ったいい臭いだろう?」
「斬新すぎて吐き気がする」
机や床に転がる瓶を適当につまみ上げて、ジョンは渋面を作った。
「……シアン化カリウム? こっちは……クロロホルムか?」
ジョンが顔を上げると、少年か少女か分からない小柄な子供がロッキングチェアに優雅に腰を掛けながら、ショットグラスに入れた透明な液体を傾けていた。
「それはなんだ?」
「ん?」
小さな桃色の唇を薄く開き、大きなダークグリーンの瞳を歪めてその子供は妖艶に微笑んだ。
「ホルマリンだが?」
「それは死体の防腐剤だぞ」
ふっと笑みの皺を深くし、その少女だか少年だかはグラスの中身を一息に飲み干した。
その様子に、ジョンはゲエっと舌を出す。ショットグラスでテキーラを飲む子供がいたら咎めもするだろう。しかし、ショットグラスで防腐剤を飲む子供には、果たしてなんと声をかけるのが適切なのか、ジョンには分からなかった。
ちいさな舌でぺろりと唇を舐めて、その子供は満足そうに微笑む。
「いいねえ」
「ウソだろ……」
瓜実顔の美しい子供だった。顔のパーツがちいさくどれも洗練されている。もしこの子が女の子だったなら、これから五年後が楽しみな見目麗しい少女に見える。
屋内だというのに、その子はシルクハットをかぶっていた。顔の左右から、鎖骨に届くくらいの綺麗な金髪を垂らしている。もしかしたら、長い髪の毛をシルクハットの中に収めているのかもしれない。
問題はその服装だった。白いワイシャツにベストとパンツ姿は、まるっきり男の子のものだ。そしてこのやけに不遜で尊大な態度も気になる。親はどういう躾をしているのだろうか。
ジョンは薬品の瓶を床に戻して立ち上がった。
「君、名前は?」
「名を訪ねるなら自分から名乗るのが礼儀だろう? まして君はわたしの家に勝手に入ってきた身分だ。無礼にも程があると思うがね」
(殺すぞクソガキ)
と思わず口を突きそうになるのをぐっと堪えて、ジョンは自身のシルクハットを取った。
二十二歳のジョンが、十歳そこそこの子供にムキになるのも大人げない。
「失礼。ぼくはジョン・グラッドソン」
ふうん。と、口の端を吊り上げて笑うと、少女だか少年だかはロッキングチェアを降りて歩み寄ってきた。
並んでみて改めて、かなり小柄だとわかった。身長はジョンの鳩尾辺りまでしかない。
「シャーロット・ロールだ。気楽にシャーリーと呼んでくれ」
「どうも、シャーリー」
差し出された白い小さな手を、ジョンはしっかりと握って握手を交わした。
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