第2話「呪われた櫛」

宮中の女房たちが次々と倒れる——その噂は、千鶴が安倍家に嫁いで一週間が経った頃に届いた。


「まるで呪いのようだと申します。女房たちが突然、高熱を出し、意識を失うのです」


晴明せいめいの前で、宮中きゅうちゅうからの使者がそう報告していた。千鶴は部屋の隅で静かに針仕事をしながら、その会話に耳を傾けていた。


「いつ頃から始まったのだ?」晴明の声は冷静だった。


「三日前からでございます。既に五人の女房が倒れ、一人は…」使者は言葉を濁した。


「亡くなったのか」


使者は重々しく頷いた。「はい。昨夜、最初に倒れた女房が息を引き取りました」


晴明は静かに目を閉じ、深く考え込んだ。


「調査に向かおう。準備をしてくれ」


使者が下がった後、晴明は千鶴の方を振り向いた。


「千鶴、同行してくれないか」


針仕事の手を止め、千鶴は驚いて顔を上げた。「私が?」


「先日の宮中での儀式の際、あなたの観察眼に感心した。女房たちの間で起きている出来事だ。女性の視点が必要だろう」


千鶴は一瞬迷ったが、すぐに決断した。「お役に立てるよう努めます」


---


宮中に到着すると、不安と緊張が入り混じった空気が漂っていた。女房たちは小さな声で囁き合い、廊下を歩く足音も普段より慎重だった。


晴明と千鶴は、病に倒れた女房たちが休む部屋へと案内された。そこには四人の女性が、蒼白い顔で横たわっていた。


「症状は皆同じです。突然の高熱、めまい、そして意識の混濁」侍医じいが説明した。


晴明は静かに患者たちを観察し、時折呪文を唱えるように何かをつぶやいていた。千鶴も女房たちの様子を注意深く見ていた。


(何か共通点はないかしら…)


千鶴は現代の医学知識を思い出しながら、症状を分析しようとした。高熱、めまい、意識障害——これは単なる風邪ではない。何か毒物による症状に似ていた。


「晴明様」千鶴は静かに声をかけた。「彼女たちの持ち物や、最近共有したものはありませんか?」


晴明は千鶴の質問に興味を示した。「なるほど、良い視点だ」


侍女たちに尋ねると、興味深い事実が判明した。倒れた女房たちは皆、三日前に宮中に入った新しい櫛を使っていたのだ。


「その櫛はどこにある?」晴明が尋ねた。


「それぞれの女房の持ち物の中に」


晴明の指示で、櫛が集められた。美しい黒檀こくたんの櫛に、精巧な蝶の模様が彫られていた。


晴明はそれらを慎重に調べ、やがて眉をひそめた。「これは…」


千鶴も櫛を見て、何か違和感を覚えた。蝶の模様の下に、微かに何かが刻まれているように見えた。


「晴明様、この模様の下に何か…」


晴明は頷き、懐から小さな道具を取り出して櫛を詳しく調べた。「呪詛じゅその文字だ。しかも、櫛の内部に毒が仕込まれている」


千鶴は現代人の知識で考えた。(毒を塗った櫛…髪に触れることで皮膚から吸収される。まるで接触型の毒物兵器だわ)


「誰がこのような櫛を?」千鶴は思わず尋ねた。


「それを突き止めねばならない」晴明は立ち上がり、侍女に向かって言った。「この櫛を宮中に持ち込んだ者について、詳しく聞きたい」


---


調査は夕方まで続いた。櫛は宮中の女房たちに人気の商人から購入されたものだったが、その商人は既に姿を消していた。


冥府道めいふどうの仕業か…」晴明はつぶやいた。


「冥府道?」千鶴は初めて聞く名前に首を傾げた。


陰陽道おんみょうどうの力を悪用する秘密結社だ。最近、その活動が活発になっている」


晴明は千鶴に向き直り、真剣な表情で言った。「千鶴、あなたの助けが必要だ。この毒を解く方法を見つけなければ、残りの女房たちも命を落とす」


千鶴は決意を固めた。「どうすれば…」


「まず、この毒の正体を突き止めよう。私は呪詛を解読する。あなたは毒の成分を調べてくれないか」


千鶴は現代の科学知識を隠しながらも、できる限りの協力をすることにした。


---


安倍家に戻り、晴明の書庫で二人は作業を始めた。晴明は古い巻物を広げ、呪詛の解読に没頭した。千鶴は毒物に関する書物を調べ、症状から毒の種類を特定しようとした。


「これは…」千鶴は一冊の本に目を留めた。そこには、似たような症状を引き起こす毒草について記されていた。「トリカブト…いえ、平安時代の言葉では烏頭うずと呼ばれていたはず」


千鶴は慎重に言葉を選びながら、晴明に伝えた。「晴明様、この症状は烏頭の毒に似ています。高熱、めまい、そして最終的には心臓が止まる…」


晴明は千鶴の方を見て、驚いたように目を見開いた。「烏頭…確かにその可能性がある。しかし、どうしてそれを?」


千鶴は焦った。現代の毒物学の知識を見せすぎたかもしれない。


「私の…父が薬草に詳しく、危険な植物についても教えてくれました」


晴明は深く千鶴を見つめたが、それ以上は問わなかった。「烏頭なら、解毒の方法がある。しかし、呪詛と組み合わされているとなると…」


その時、書庫の扉が開き、藤原舞衣ふじわらまいが入ってきた。


「晴明様、宮中からの使者です。また一人、女房が倒れたとのこと」


舞衣は千鶴を冷たい目で見た。「あなたも一緒に調査されていたそうですね。何か役に立つことができましたか?」


その皮肉な口調に、千鶴は反論しようとしたが、晴明が間に入った。


「千鶴のおかげで毒の正体がわかった。舞衣、烏頭の解毒に必要な材料を集めてくれ」


舞衣は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに従順な態度に戻った。「かしこまりました」


舞衣が去った後、晴明は千鶴に向き直った。「千鶴、あなたの知識に感謝する。しかし、まだ呪詛の部分が解けていない。共に解読を続けよう」


二人は夜遅くまで作業を続けた。千鶴は現代の知識と平安時代の文献を照らし合わせながら、慎重に晴明を助けた。


---


翌朝、解毒薬と呪詛を解く術が完成した。


「これで女房たちを救えるはずだ」晴明は疲れた表情の中にも、確信を秘めていた。


宮中に向かう途中、千鶴は晴明に尋ねた。「冥府道は、なぜこのような恐ろしいことを?」


晴明の表情が暗くなった。「彼らは混乱を望んでいる。陰陽の力を乱し、新たな秩序を作ろうとしているのだ」


「でも、罪のない女房たちを…」


「彼らにとっては、目的のための手段に過ぎない」晴明は静かに言った。「だからこそ、我々が止めなければならない」


宮中に到着すると、状況は更に悪化していた。新たに二人の女房が倒れ、最初の患者は危篤状態だった。


晴明はすぐに解毒の儀式を始めた。千鶴も側で手伝い、女房たちに解毒薬を飲ませた。


儀式の最中、千鶴は部屋の隅に置かれた小箱に気づいた。何か引き寄せられるように、その箱に近づいた。


箱の中には、まだ使われていない同じ模様の櫛が数本入っていた。


「晴明様!」千鶴は声を上げた。「まだ櫛が…」


その時、部屋の扉が開き、一人の女房が入ってきた。彼女は千鶴が箱を開けているのを見て、表情を変えた。


「それは私の…」


晴明が振り向き、その女房を見た瞬間、彼の目が鋭く光った。「お前は…」


女房は突然、袖から小さな護符ごふを取り出し、床に投げつけた。煙が立ち込め、視界が遮られた。


「逃がすな!」晴明の声が響いた。


千鶴は咳き込みながらも、女房の逃げる方向に動いた。廊下に出ると、女房の姿が見えた。千鶴は躊躇なく追いかけた。


「待って!」


女房は振り返り、千鶴を見た。その目には憎悪が満ちていた。「安倍晴明の妻か…お前も同じ運命をたどるだろう」


そう言って、女房は再び護符を投げた。今度は炎が上がり、千鶴の行く手を遮った。


炎の向こうで、女房の姿が消えていく。千鶴は何とか炎を避けようとしたが、熱さに後ずさった。


その時、背後から水が放たれ、炎が消えた。振り返ると、藤原舞衣が立っていた。


「無謀な真似をするものね」舞衣の声には皮肉が混じっていたが、以前ほどの敵意はなかった。


「舞衣殿…ありがとう」


舞衣は小さく頷いただけで、すぐに晴明の元へと戻っていった。


---


女房たちの容態は、解毒薬と呪詛を解く術のおかげで徐々に回復していった。犯人の女房——冥府道の一員だったその女性は逃亡したが、少なくとも被害の拡大は防げた。


安倍家に戻った夜、晴明は千鶴を書庫に呼んだ。


「今回の件、あなたの助けがなければ、多くの命が失われていただろう」


千鶴は照れくさそうに首を振った。「私は当然のことをしただけです」


晴明は真剣な表情で千鶴を見つめた。「いや、あなたの知識と洞察力は特別だ。特に毒物についての知識…」


千鶴は緊張した。やはり、現代の知識を見せすぎたようだ。


「私は…」


晴明は静かに手を上げた。「説明する必要はない。誰にも秘密があるものだ。ただ、あなたの力が、これからも多くの人を救うことを願っている」


千鶴は安堵のため息をついた。晴明は彼女の秘密を追及するつもりはないようだった。


「晴明様…ありがとうございます」


晴明は微笑んだ。「さて、明日からは陰陽道の基礎をもっと教えよう。あなたのような才能は磨くべきだ」


千鶴は嬉しさと驚きで目を見開いた。「本当ですか?」


「ああ。もちろん、舞衣の修行の邪魔にならない範囲でだが」


千鶴は晴明の言葉の意味を理解した。舞衣との関係は、まだ慎重に扱う必要があるということだ。


「わかりました。舞衣殿を尊重します」


晴明は満足そうに頷いた。「良い。では、休むといい。今日は長い一日だった」


千鶴が部屋に戻ると、窓辺に舞衣の姿があった。


「舞衣殿?」


舞衣は千鶴を見て、複雑な表情を浮かべた。「晴明様があなたに陰陽道を教えるそうね」


千鶴は緊張した。「ええ…でも、あなたの邪魔をするつもりはありません」


舞衣は静かに言った。「あなたには才能がある。それは認めざるを得ない」


千鶴は驚いた。舞衣からの、わずかながらの認識だった。


「ありがとう。あなたの助けがなければ、今日の犯人を追いつめることもできなかった」


舞衣は小さく頷いた。「でも、油断しないで。晴明様は私の師であり、私が守るべき人。それだけは忘れないで」


そう言って、舞衣は立ち去った。その背中には、以前ほどの敵意はなかった。


千鶴は窓から夜空を見上げた。平安時代での生活は、想像以上に複雑で危険なものになりつつあった。しかし同時に、彼女の中に新たな可能性も開かれつつあった。


(陰陽道を学ぶ…現代の歴史研究者としては夢のような機会だけど、同時に危険も伴う)


千鶴は決意を新たにした。この時代で生き抜くため、そして晴明と共に人々を守るため、自分の知識と才能を最大限に活かそうと。


そして、いつか訪れるであろう真実の時——自分が「未来から来た」ことを告白する日のために、少しずつ晴明との信頼関係を築いていこうと思った。


窓から差し込む月明かりの中、千鶴は静かに微笑んだ。


(続く)

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