第3章ー第1話「ばきっ、の正体」

僕は彼女の背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。


空気が、静かに震えていたような気がした。

その背中が、何かの拍子にこちらを振り返る。


自然な動きだった。
でも、僕の中のどこかが、びくりと揺れた。


「え〜まじで?あいつまだ既読ついてないんだけど」


「まって、それはもう詰んでない?笑」


何気ない会話が交わされている。


その声は教室の雑音に溶けていったけど、


彼女の目だけは、まっすぐこっちを見ていた。

気のせいかもしれない。


でも、その目は、“僕が聞こえた音”の正体を知ってる人の目に思えた。

僕は何も言えずに、目をそらした。
その瞬間、また“日常”のノイズが教室を満たしていった。


「え、ここ使う? ごめんね、荷物広げちゃってて」



教室の隅で、友達と談笑していた女子生徒のひとりが、軽く笑って席を立つ。

若菜だった。

たしか隣のクラスの子。

名前は知ってた。


でも、ちゃんと顔を見たのは、たぶんこれが初めてだ。

あの“ばきっ”という音を、教室の空気に響かせた張本人だった。


その声は、まるで“何も知らない”ふりをしていた。


でも、その目だけが違った。

透を見つけたその瞬間、
一瞬だけ、微笑んだ。


ほんの、ささやかな角度の変化で。


「透くんって、音に気づける人?」


若菜は何でもない顔でそう言って、友達とともに教室を出ていった。


彼女のあとを追って、空気がすっと揺れた気がした。


──その微笑みだけが、意味を残していた。

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