第2章ー第2話 「しぼむ音のあとで」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
言葉を選ぶふりをしながら、ただ、息を飲んでいた。
結はパンフレットをそっと棚に戻して、「じゃあね」と笑った。
ほんの少しだけ、目をそらすように。
その背中を見送りながら、僕は掲示板の前にしばらく立ち尽くしていた。
視線の先には、進路希望調査の文字。 でも、その赤いインクさえ、今はぼやけて見えた。
僕はゆっくりと歩き出す。 誰にも気づかれないように、そっと。
足音が静かに、床を撫でていく。 そのたびに、胸の奥でさっきの“音”がふわりと揺れる。
──結は、笑っていた。 でも、あれは「安心してる人の笑顔」じゃなかった。 それは、“押し殺したもの”がある人の、笑顔だった。
「……ねえ透。それでも聞こえていない振り続けるの?」
頭の奥で、ナギの声が囁いた気がした。 僕はその問いに、答えられなかった。
その日の空は、やけに水のように澄んでいて。
全部が静かに、沈んでいるように見えた。
家路に着くまでの道は暗く、街灯が切れかかっている。
家の前に着くと、異様なまでに明るい玄関照明が僕の帰りを出迎えている。
ドアを開けると母さんの「おかえり」が聞こえる。いつも通りの明るい声。
玄関先にある姿見が僕の心の奥を透かしたように睨んでくる。
リビングでは、父さんがテレビに向かって楽しそうに言っていた。
「これは簡単だな。“フェルメール”だろ?」
画面の中では、ネプリーグのファイブボンバー。
「17世紀のオランダ絵画で、“真珠の耳飾りの少女”の作者は?」
正解のアナウンスが流れ、父さんがドヤ顔でうなずく。
「やっぱりな、昔からこの問題は定番だよな」
僕はテーブルの端で、進路希望調査票をぼんやり見ていた。 鉛筆は動かない。答えも、見えてこない。
(……フェルメールは、すぐに出てくるのに)
キッチンの母は、何も言わずにお皿の音をかちゃかちゃと言わせ、夕飯の準備をしている。
「今日は休みだったの?」
父さんに声をかける。
「この間の休日出勤の代休だったんだ。まあ、働くってのは、こういうことだからな」
そう言いながら、父さんは湯呑みを片手にごくりと湯気が出ていない冷め切ったお茶を飲んだ。
「透はどうなんだ?もう進路、だいたい見えてきたのか?」
僕は少しだけ鉛筆を動かして、空欄のままの進路希望票を隠すように裏返した。
「うーん……まだ、考え中」
「そうか。まあ、今のうちにいろいろ悩んどけ。悩める時間があるのは、若さの特権だぞ」
優しい口ぶり。でもその奥には、“選ばなきゃいけないもの”が当たり前にある感じがした。
「大学行って、資格でも取って、安定した会社に入れれば、それが一番だ。な?」
テレビでは、また次の問題が読み上げられていた。
「“〇〇大学の法学部”が舞台のドラマといえば?」
「はい、『リーガル・ハイ』!」と父さんが声を上げる。
検討違いの回答をするタレントが出て、スタジオが盛り上がる。
父さんは「よしっ俺は当たった」とつぶやいて、僕の方を見た。
「おバカタレントってのは恥ずかしくないのかね。」
父さんの声が、テレビの笑い声と混ざり合ってリビングに響いていた。
母さんはテーブルを拭きながら、僕と父さんの会話には入らない。
ただ、笑い声が止んだあとに響くクロスの音だけが、なんだかやけに大きく感じた。
僕は笑ってみせた。でも、喉の奥が少しだけ詰まっていた。
(僕も、いつか“正解”を答えられるようにならなきゃいけないんだろうか)
進路希望票の白い紙面が、やけに冷たく見えた。
「そういえば、進路調査票学校に出さなきゃなんだっけ?」
寸胴からカレーを盛り付けながら、キッチンから声をかけてくる。
「透なら大丈夫だろ。頭いいし、真面目だし。」
父さんの声は、褒めてくれているはずなのに、なぜか背中に重たく響いた。
キッチンから漂うカレーの匂いも、いつもと同じで、落ち着くはずなのに
──なんだか胸の奥がざらついた。
(……“大丈夫”って、誰の基準だろう)
僕だって、本当は
── 何かを、見ないようにしてきたんじゃないだろうか。
夕飯は、いつもと変わらないビーフカレーだった。
具はごろっとしていて、ルーを2種類混ぜた母さんの定番の味。
でも、どれだけスパイスの香りが鼻をくすぐっても、食欲の波はどこか遠くにあった。
「辛くなかった?」
母さんが、ちょっとだけ嬉しそうに尋ねてくる。
「うん。美味しかったよ」
僕はそう答えた。
たぶん、反射的に。 ほんとうに美味しいかどうかは、もう自分でもわからなかった。
食後、風呂場に向かう。
湯船にはちょっと熱めの湯が張ってあって、
肩まで浸かると、体から音が抜けていくような感覚がした。
(……はぁ)
湯気の向こうで、天井の灯りがぼんやりとにじむ。
目を閉じると、掲示板の前の光景がまた浮かんできた。 静かに笑った結の横顔。閉じたパンフレット。
あの“しぼむ音”が、まだ胸の奥に残っている。
風呂上がり、濡れた髪をタオルで拭きながら部屋へ戻る。 脱衣所の鏡に映った自分の顔は、妙に他人みたいに見えた。
部屋に戻ると、机の上にはそのまま置きっぱなしになっていた進路希望調査票があった。 真っ白な用紙。名前の欄だけが埋まっていて、あとはすべて空白。
僕は椅子に腰を下ろし、しばらくその紙を眺めていた。
(……なんで、こんなにも書けないんだろう)
視線を逸らすように、窓の外を見る。
カーテンの隙間から見える夜の街は、相変わらず静かで、 その中に、自分の居場所がどこにも見つからない気がした。
「“やりたいこと”ってさ、キラキラしてて見つけにくいけど、 “やりたくないこと”って、意外とすぐ出てこない?」
「たとえば、誰かの“正解”に合わせるとか、“楽しそうなふり”するとか。
……“無理する”とかさ。 それって、透の“したいこと”の反対側にあるやつかもしれ. ないよ」
いつかの澄の声が蘇る。
「“真面目で、ちゃんとしてる”って、そう見えるようにしてきたのって、なんで?」
突然耳元で、囁くように声がする。あの冷たいようで芯のある声。
(やめてくれよ……)
「君がほんとうに欲しかったもの、なんだっけ?」
ベッドにうつぶせると、布団の匂いに包まれて、 ようやくナギの声が遠ざかっていった。 でも、代わりに、さっきのしぼむ音だけが、静かに耳の奥に残り続けていた。
ベッドの中で目を閉じると、 さっきの結の横顔と、パンフレットの折り目が、また浮かんできた。
(……あれは、確かに“音”だった)
小さくて、誰も気づかない。 でも、たしかに存在していた“しぼむ音”。
僕はそれを、聞いてしまった。 それだけが、どうしようもなく胸に残っている。
──もしかして、僕は。
ここにいながら、 みんなの中にいながら、 ほんとうは、まったく違うところにいるんじゃないか。
そう思ったとき、どこかで何かがまた
── 小さく、ぱちんと鳴った気がした
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