第6話「食べてみたら、うまい(涙)」
「よし、今度こそうまくいくはずだ」
修は自宅の裏庭に設置した簡易的な作業台の前で、新たに捕獲したキョンと向き合っていた。今回で三頭目となる成獣のメスだ。朝早く自分のわなに掛かっていたのを発見し、竹内に電話で確認してから、自らの手で止め刺しを行った。
今や修にとって、この一連の作業は少しずつ馴染みのものになりつつあった。それでも、動物の命を奪う瞬間の緊張感は変わらない。しかし、その命を無駄にしないという強い決意を胸に、修は静江から学んだ処理法を実践していた。
「まずは血抜き...」
修は首の動脈を切り、血を専用の容器に受ける。静江の言葉通り、この血は後で畑の肥料として使う予定だ。かつては気分が悪くなるほど生々しかった作業が、今では一つの大切な工程として捉えられるようになっていた。
「次に冷却と皮剥ぎ...」
大きなクーラーボックスに氷と水を入れ、キョンの体温を急速に下げる準備をする。そして慎重に皮を剥いでいく。最初に比べれば上手くなったとはいえ、まだまだ皮と肉の間の膜を切るのは難しい。それでも、少しずつ形になっていくのが嬉しい。
ちょうどその時、静江が訪ねてきた。
「あら、上手になったじゃない」
修が皮を剥ぐ様子を見て、静江は感心した様子だ。
「静江さん、見に来てくれたんですか?」
「ええ、佐々木さんからまた捕れたって聞いたからね。様子見に来たの」
静江は手際よく修の作業をサポートしながら、アドバイスを続けた。
「そこは力を入れすぎないの。刃を滑らせるように...そうそう、その調子」
二人で協力して、およそ一時間後には皮剥ぎと内臓処理が完了した。修は誇らしげに完成した肉塊を眺めていた。
「今回はバッチリだね」静江は微笑んだ。「さて、今日はどんな料理にする?」
修は考えていたプランを話した。
「今日は、焚き火でシンプルにロースト肉を焼いてみようと思うんです。竹内さんも呼んで、みのりさんにも声をかけました」
「いい考えね。シンプルな調理法が一番、肉の味が分かるわ」
静江は手際よく肉を部位ごとに分けていく。最上のロースの部分は当日のロースト用に、他の部位は様々な料理用に分けられた。
「これはこうして、塩水に一晩漬けておくといいわ」
修は静江の指示通りに肉を処理した。今回は完璧にやり遂げたいという思いが強かった。特に、前回の失敗を知るみのりに、成功した料理を食べてもらいたかった。
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夕方、修の家の裏庭には小さな焚き火台が置かれ、火が灯された。周りには丸太を切ったイスが配置されている。竹内が到着し、続いてみのりもやって来た。
「これは素晴らしいセッティングですね」
みのりは笑顔で言った。普段はきちんとした市役所の職員という印象だが、今日は私服でカジュアルな様子だ。
「ありがとうございます。今日は...リベンジなんです」
修は少し照れながら言った。竹内はすでに焚き火の近くに陣取り、熾火の具合を確認している。
「火加減が大事だぞ。熾火になってから焼くんだ」
修は頷き、準備を続けた。台所から、静江がハーブとスパイスを混ぜたマリネ液に漬けたロース肉を持ってきた。
「修くん、これを焼いてごらん。あまり火を通しすぎないように」
静江から肉を受け取った修は、鉄製の網の上に肉を並べた。肉が焼ける「ジュッ」という音と共に、香ばしい香りが立ち上る。
「いい匂いだな」
竹内が満足そうに呟いた。火の周りに集まった四人は、それぞれ修の成長を見守る立場の人たちだ。修はそのことに気づき、感謝の気持ちが込み上げてきた。
「みなさん、今日は来てくれてありがとうございます」
「いいって。むしろ楽しみにしていたよ」
みのりは優しく笑った。彼女は市の職員として公私の境界をきちんと保ちながらも、修のキョン対策の取り組みを後押ししてくれていた。
火の粉が舞う中、修は慎重に肉をひっくり返した。裏面も均等に焼き色がつくよう、静江に教わった通りに火加減を調整する。
「そろそろいいかな」
静江が肉を見て判断した。「中は赤いままだけど、これくらいが一番美味しいの」
修は肉を取り上げ、事前に準備しておいた木の大皿に盛り付けた。熱々のまま、四人にナイフとフォークを配る。
「それじゃあ、いただきます」
四人は同時に肉を切り分け始めた。修が切り分けた肉は、中が薄いピンク色で、焼き色のついた外側との対比が美しい。スモーキーな香りと、ハーブの爽やかな香りが混ざり合う。
恐る恐る一口、口に運んだ。
「やわらかい...」
思わず呟いた。前回の硬くて臭い肉とは全く違う。ナイフが通るときの感触からして違っていた。口の中で肉の繊維がほどけるように広がり、ワイルドながらも上品な風味が口いっぱいに広がる。
「臭くない...」
確かに野生動物特有の香りはあるが、それは不快な臭みではなく、むしろ料理の個性として活きている。
「山の味がする...」
修は三度目の感想を漏らした。この肉には、スーパーで売っている家畜の肉にはない深みがある。キョンが山で食べた草や木の実、土の香り、風の匂い...そんな自然の恵みが凝縮されているかのようだ。
修は自分の目に涙が滲んでいることに気がついた。なぜ泣いているのか、自分でも理解できない。でも、この感動は確かなものだった。
「どうした?美味くないのか?」
竹内が心配そうに尋ねた。修は慌てて涙をぬぐった。
「いえ...すごく美味しいんです。だから...」
静江は優しく微笑んだ。
「分かるよ。命をいただくって、そういうことなんだよね」
みのりも静かに頷いた。
「私も感動しました。市場に流通している肉とは全然違いますね」
「野生動物の肉は、その土地の味がするんだ」
竹内が哲学的に語った。
「都会の人間は忘れがちだが、食べ物には命がある。特に肉は、確かな命を頂いている。その事実と向き合うのが、田舎の暮らしの一つの価値だ」
修は静かに頷いた。東京での暮らしでは、肉は単なる「商品」だった。パックに入っていて、どこか抽象的な存在。しかし今、目の前で命を絶ち、自らの手で処理し、火を通した肉は、具体的で生々しい「命」そのものだった。
「命をいただいているんですね...」
修はもう一口、肉を口に運んだ。今度は意識的に、感謝の気持ちを込めて味わった。
四人は静かに肉を味わいながら、自然と向き合う生き方について、様々な話をした。竹内は昔の猟の話、静江は伝統的な保存食の知恵、みのりは現代の鳥獣害対策の課題について語った。
焚き火の光が揺らめく中、修はこの時間が特別なものだと感じていた。東京では決して味わえなかった、人と自然が織りなす豊かな時間。
「もう一皿、いかがですか?」
修が追加の肉を皆に勧めると、三人とも喜んで受け入れた。
「これはぜひ市長にも食べてもらいたいわね」
みのりが言った。「キョンを単なる害獣としてではなく、地域の資源として見直すきっかけになるかもしれません」
「資源...」
修はその言葉に新たな視点を見出した。キョンは確かに外来種で農作物に被害を与える存在だ。しかし同時に、こんなに美味しい食材でもある。駆除すべき「害獣」でありながら、活用すべき「資源」でもある。その両義性に、修は深い興味を抱いた。
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焚き火が弱まり始めた頃、みのりが話を切り出した。
「実は、市でジビエ料理の講習会を企画しているんです。前にもお話しましたが、具体的な日程が決まりました」
みのりはスマートフォンを取り出し、カレンダーを確認した。
「来月の15日です。地元の猟師さんや料理人にも協力していただく予定で...」
竹内が口を挟んだ。
「俺も声がかかっている。わな猟の実演をする予定だ」
「わたしも保存食のレシピを提供するつもりよ」
静江も続けた。みのりはにっこり笑った。
「皆さんの協力で、とても充実した内容になりそうです。修さんもぜひ参加してください」
「はい、もちろん!」
修は即答した。そして、ふと思いついたように言った。
「その講習会で...僕も何か協力できることはありますか?」
みのりは少し驚いた様子だったが、すぐに表情を明るくした。
「実は...『都会から来た初心者の体験談』のようなセクションを設けられたら面白いかなと思っていたんです。修さんの経験は、これから獣害対策や狩猟に関わる人たちにとって、貴重な参考になると思います」
修は喜んで引き受けた。自分の失敗も含めて、率直に体験を語ることで、誰かの役に立てるなら嬉しいことだった。
「ところで、この肉、まだ残っていますよね?」
みのりが聞いた。修は頷いた。
「はい、もう少しあります。部位ごとに分けて冷凍しています」
「それなら...」みのりは少し遠慮がちに続けた。「市役所の農林課の職員にも少し分けていただけませんか?実際に食べてもらうのが一番の説得力になりますから」
「もちろんです!喜んで」
修の答えに、みのりは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。鳥獣害対策というと、どうしても『駆除』という側面が強調されがちなんです。でも、『活用』という視点も同時に広げていきたいんです」
夜が更けていく中、四人の会話はさらに広がっていった。キョンという外来種との向き合い方、地域の獣害対策、伝統的な食文化の継承...様々なテーマが焚き火を囲んで語られた。
帰り際、竹内が修の肩を叩いた。
「よくやった。今日の肉は本当に美味かった」
その言葉は、修にとって何よりの褒め言葉だった。
静江も満足げに微笑んだ。
「次は内臓料理に挑戦してみなさい。肝臓は特に栄養価が高いのよ」
みのりは修と静江の両方に深々と頭を下げた。
「今日はありがとうございました。こういう場に参加させていただいて、本当に勉強になります」
三人を見送った後、修は一人焚き火の前に残った。炎はほとんど消えかかっていたが、赤い残り火がまだ温かさを放っている。
「ありがとう...」
修は小さく呟いた。それは目の前の火に対してなのか、今日食べたキョンに対してなのか、あるいはこの場に集まってくれた人々に対してなのか。おそらくその全てだろう。
東京での暮らしを捨て、この山奥に移り住んだことを、初めて心から良かったと思った。ここには東京にはない大切なものがあった。命との向き合い方、人との繋がり、自然との対話。
修は残り火に小さな枝を投げ入れた。パチリと火花が散り、小さな炎が再び立ち上がる。新しい命が灯ったように見えた。
「いただきます」
修は静かに頭を下げた。それは今日食べた肉への感謝であり、この土地が与えてくれた学びへの感謝でもあった。焚き火の炎が夜風に揺れる中、修の心には確かな充実感が広がっていた。
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