第6話 無気力


 碧がいない。そんな世界は、無色だった。淡々と仕事をこなし、風呂も食事も忘れてぼんやりする。ただそれだけ。


 家の扉が乱暴に開かれて、目だけそちらに向ける。赤黒い着流し。聖さんだ。



「おい、春燈」



 ズカズカと家に入ってきた聖さんは、躊躇うことなく私を肩に担ぎあげた。抵抗する気力もなくて、ただ家から連れ出される。空が白んでいる。朝だったのか。


 門を通って、町に入る。ぶらんとしたまま、ただ運ばれていく。運ばれた先は、先手組の訓練所。どさりと捨てるように落とされた。痛いような、そうでもないような。


 無意識に、迅に噛まれた腕をグッと握り込む。痛み。ああ、そう、これが痛み。熱くなって、血が流れる。ああ、生きてる。



「おい、何してる」



 聖さんは私の腕を掴む。手を無理やり引き剥がされた。



「紅焔! 救急箱持って来い!」


「はい!」



 紅焔。ああ、いたんだ。すぐに白に咲く黄色い花火が近づいてくる。そばに置かれた救急箱。私の腕に巻かれた赤い包帯が解かれた。



「染みるぞ」



 聖さんの言葉の意味を理解する前に、激痛が走る。腕に流れる茶色い液体。息が詰まるほど痛いけれど、声は出ない。表情も動かない。私は、死んでいるのか。


 腕がぐるぐると白くなる。深いため息。顔を上げると、聖さんが睨み下ろしている。朝日に照らされて、迫力がある。



「構えろ」



 刀を放り投げられる。それを、適当に握る。鞘から抜く。いつもの刀。



「立て」



 言われるがまま、言われた通りに動く。刀の鞘が手に馴染まない。



「行くぞ」



 いきなり聖さんに斬り込まれて、刀を取り落とす。舌打ち。反射的に俯くと、足元に槍が転がってきた。



「持ち替えろ」



 言われた通り、槍を拾う。薙刀を愛用する隊員が多い中、槍は私しか扱わない。私だけの、相棒。そう、これは手に馴染む。


 目の前に薙刀の穂先が付きつけられる。それを辿って、聖さんを見る。



「碧のことは聞いた。実の両親が迎えに来たと」



 実の両親。槍を振り下ろして斬りかかる。



「私だ」



 引き戻された薙刀でいなされる。槍で斬り上げる。薙刀は間に合わない。飛び退いて避けられる。



「私が、碧の、父親だ」



 振り上げられた槍を、下ろす。と見せかけて横に薙ぎ払う。薙刀が吹き飛ぶ。こんなのは、感覚だ。身体の奥底に根付いた、槍捌き。



「確かに碧を育てたのは春燈だ。だが、実の親が現れたなら、子どもを育てる権利はその親に移譲される。知っているだろう?」



 武器を持たない聖さん。槍を首に突きつける。



「黙れよ」


「おい」


「黙れ」



 躊躇なく槍を突き出す。私から、碧を奪うな。



「聖さんっ」



 倒れた。手応えはない。転がる聖さん。隣に、紅焔。



「紅焔、邪魔するな」



 紅焔の喉首目掛けて槍を突き立てる。転がって躱される。すばしっこくて、面倒だ。



「碧は私の娘だ。私が、育てた、私の、娘」



 何度も槍を突き立てる。紅焔はその度に転がって逃げる。先回りしても、予測されているかのように避けていく。



「碧を、返せ」



 目を閉じて槍を突き立てる。瞼の裏で、碧が満面の笑みを浮かべて走り回っている。そこにいるのに、手が届かない。



「誰が戦闘中に目を閉じて良いと教えた」



 激痛。鳩尾に、拳。碧の笑顔が霧散して、地面が視界に入る。



「いい加減正気に戻れ」



 握られた聖さんの拳。懐かしい。何度こうして教育されただろうか。いや、違う。あれは、誰だ。私の、師匠。


 世界最強の男。彼の一番弟子だった。才能がなくて、捨てられた。城門を守る門番として、生計を立てた。誰の話だ。私は、生まれながらにして、門番に憧れた。先手組として、町を守りたかった。


 槍も刀も、弓も銃も聖さんに学んだ。戦闘のいろはを叩き込まれた。薙刀は下手くそだけど、槍は得意。刀はそこそこ。弓は上々、銃は下手。


 家事は好き。碧のためなら、なんでも作る。食事も、小物も。裁縫は、碧と出会ってから始めた。



「碧」


「碧はもういない。お前はお前だ」



 碧が、いない。私の生きる意味。碧、私の、最愛の娘。



「どうして、いない」


「碧はあるべき場所に帰ったんだ」


「あるべき、場所」



 それはどこだろう。碧のあるべき場所。そこは、私がいない場所か。私の、碧。



「碧、私の、娘」


「ああ。そうだな」


「私の、居場所」



 碧のあるべき場所は、分からない。私のあるべき場所は、碧のそば。碧がいない。私も、いない。


 目の前が真っ暗になる。私は、ここにいない。私があるべき場所は、ここじゃない。



「おい、春燈。春燈!」



 激しく肩を揺さぶられて目を開ける。この人は、聖さんだ。この町の、裏を牛耳る人。気が付かないふりをしていた。肩の桜の刺青。


 朝桜。暗殺、密売、賭博を取り仕切る集団。朝桜の一員の証が、桜の刺青。


 聖さんの居場所は、この町の、深く沈んだ闇の中にでもあるのだろうか。



「春燈さん! これ、飲んでください!」



 瓢箪。水筒か。受け取る気力もない。この人は、紅焔。町の人間。それ以外は、まだ知らない。ただ、真面目。鍛錬が好き。きっと、先手組が、紅焔の居場所。


 私の居場所は、町にはない。先手組に入ったのは、どうしてだったか。碧を養うための仕事。違う。その前から、先手組にいた。私はどうして、ここにいたんだ。



「おい、春燈。飲め」



 無理やり口の中に水を流し込まれる。息苦しくて、飲み込む。体内に何かが入るのは、いつぶりだろうか。


 そうだ、昔、似たようなことがあった。赤子の私は、干からびかけていた。そこを、母が拾ってくれた。どこかのお屋敷の使用人だった母。先手組にいたという父。義理の両親の元で育った。


 父は、戦に駆り出されて亡くなったという。私は五歳のころには振り売りを始めた。父を知らない私に、母はよく父の話をした。父は、どれだけ勇敢で優しかったか。


 父に憧れて、先手組に入ったのだったか。


 違う、私は、商人の息子だった。両親に連れられて各地を行商して周り、数多の門をくぐった。人と話すことが好きで、各地の門番と仲良くなった。


 だから門番になったのか。


 分からない。私の二つの過去。どちらが私で、何が私を作ったのか。結局、私は誰なのか。



「私は、誰」



 妄想か、現実か。私の中に何かがいる。これまでこんなことはなかった。視界が揺れる。目の前に、聖さん。息苦しい。胸倉を掴まれている。



「お前は桜井春燈。先手組西門隊昼班所属。それ以上の情報はいらねぇ」



 聖さんの朝日色の瞳。私だけが映っている。それが、私か。私。私。私なんだな。



「桜井、春燈、か」


「ああ。オレたちの仲間だ」


「仲、間」



 言われた言葉を繰り返す。私は何者か。桜井春燈は、先手組西門隊昼班の仲間。ここに、私の居場所はある。



「私は、ここに、いて良いのか」



 もうわけが分からない。私はここにいて良いのに、どうして碧がいないんだ。



「春燈。しっかりしろ。お前がそんなんでどうする。もしも碧が見たら、心配するだろうな」



 碧が、心配。碧には、いつも笑顔でいて欲しい。例え、私の隣じゃなくても。碧が笑っていてくれるなら、それで、良い。


 わけがない。隣にいて欲しい。だって、碧は私の娘だ。まだ七歳。育ち盛りの、可愛い盛り。その成長を見守りたくないわけがない。


 圧倒的な喪失感。耐えがたい。



「春燈。とにかく、これを持て」



 手渡された、槍。それを握ると、引っ張って立たされる。槍を持ったときの体捌きはこの身に染み込んでいる。



「頭空っぽになるまで、やるぞ」



 聖さんが薙刀を手に斬り込んでくる。咄嗟に避けて、槍を振り下ろす。避けられて、また攻められて。


 そのうち、相手が紅焔に代わったり、二人相手になったり。体力が限界に近づいたころ、聖さんが一礼した。



「仕事行くぞ。終わったらまた訓練だ」



 いつの間にか、交代の時間。こうして動いていたら、気が紛れるようだ。私は頷いて、槍と刀を手に、聖さんと紅焔と共に西門へ向かった。


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