16 夏祭り


夕方、僕は自室の鏡の前で、浴衣を着付けていた。

母が用意してくれた、紺地に細い縞模様の入った、シンプルな浴衣だ。着慣れないせいか、帯がなんだか落ち着かない。


――今日、浴衣って言ってたけど、どんなのなんだろ。

前日に、入野さんからマインが来ていたのを思い出す。


〈うちのママが選んだ変な色だったら笑ってね〉


そんなこと、あるわけない。彼女には、どんな浴衣でも似合うに決まっている。

少しソワソワしながら、僕は玄関の戸を開けた。

すると、そこに宝条が立っていた。


「お、よっしー、もう行くのか?」


宝条も、爽やかな水色の浴衣を着ていた。


「宝条も、もう行くんだ?」


「うん。待ち合わせ、時間ギリギリだしな。…つーか、よっしー、緊張してんじゃん?」


宝条が、ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込む。


「してないよ。」


僕は、そっと目を逸らす。


「いやいや、顔真っ赤だぞ。まさか、入野っちの浴衣姿、楽しみすぎて、ドキドキしてんの?」


「うるさいな……。早く行くよ。」


いつものように、他愛もないじゃれ合いをしながら、僕たちは二人で待ち合わせ場所へと向かった。



駅前広場は、すでに夏祭りに向かう人でごった返していた。

僕は、人混みを避けるように、宝条と二人で待ち合わせ場所のベンチに座って入野さんを待つ。


「おーい!平岡っちー!」


遠くから、僕を呼ぶ声が聞こえた。

声のした方を見ると、人混みの中に、ひときわ目を引く浴衣姿の入野さんが立っていた。


彼女は、藍と白の古典柄の浴衣を身にまとい、髪はすっきりとアップにしている。うなじが綺麗に露わになっていて、いつもとは違う、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。

僕は、思わず言葉を失った。


「やっぱ、おじさん、こんな色選ぶんだー!って思ってたんだけど、意外と悪くないでしょ!?」


入野さんが、照れくさそうに笑いながら、僕たちの元へ駆け寄ってきた。


「……めっちゃ、似合ってんじゃん。」


僕よりも早く、宝条がそう言った。


「ありがとー!宝条も、似合ってるじゃん!」


入野さんが、宝条の浴衣姿も褒める。

僕の言葉は、最後まで喉の奥につっかえたまま出てこなかった。


「……。」


僕が何も言えないでいると、入野さんが「あれ、平岡っち、どうしたの?」と僕の顔を覗き込んだ。


「な、なんでもない。…うん、似合ってるよ。」


僕は、そう言うのが精一杯だった。

宝条が先に言ってしまったこと、そして、僕が気の利いた言葉を返せなかったことに、内心、ちくっと胸が痛んだ。



部活のメンバーとも合流し、みんなで賑やかな屋台通りを歩く。


焼きそばやイカ焼きの香ばしい匂い、金魚すくいの賑やかな掛け声が、お祭りムードを盛り上げる。

僕たちは、それぞれ好きな屋台に立ち寄りながら、夏祭りを楽しんだ。

入野さんは、金魚すくいで宝条と競い合ったり、福田先輩と焼きそばを半分こしたりと、いつも通り明るく振る舞っている。

でも、僕の隣を歩く入野さんと、宝条のテンポが、なんだか合ってるように見えた。


「あ!宝条、あれ食べたい!」


「はいはい。入野、しょうがねーなー。」


二人の楽しそうなやり取りを、僕は、一歩後ろから眺めていた。

すると、そんな僕の様子に、一文字さんが気づいた。


「なんか今日、平岡君静かじゃん?」


「別に普通だよ。」


僕は、そう答えるのが精一杯だった。

僕の言葉を聞いて、入野さんが一瞬、僕の方を気にするように視線を向けた。

その沈黙を破ったのは、宝条だった。


「だって、入野の浴衣姿見て、興奮しちゃったんだろ!?」


宝条の冗談に、みんなが笑い声をあげ、その場はすぐに和やかな雰囲気に戻った。

僕は、またもや気の利いた言葉を宝条に先んじられてしまったことに、密かに歯噛みする。



屋台通りを抜け、僕たちは神社へと向かった。

神社は、提灯の光に照らされ、幻想的な雰囲気に包まれている。

みんなで、今年のおみくじを引いてみることにした。


「私は大吉だ!やったー!」


入野さんが、嬉しそうに飛び跳ねる。


「えー、ずるい!私は末吉だよー!」


一文字さんが、悔しそうな声をあげる。

僕は、自分の引いたおみくじを、そっと開いた。

そこには、無情にも「凶」という文字が書かれていた。


「うわぁ、ある意味レアだよそれ!」


入野さんが、僕のおみくじを覗き込み、笑う。


「うるさいな……。」


僕は、少し不機嫌な口調で、そう言い返してしまった。


「あれ?」


入野さんは、僕のいつもとは違う態度に、少しだけ戸惑ったような顔をしたが、僕がそれ以上何も言わないので、そのまま話を流してしまった。



屋台通りの少し離れたベンチで、僕たちは休憩することにした。

空には、色とりどりの花火が上がり始めている。

入野さんが、僕の隣に座った。


「…平岡っち。」


入野さんが、僕に話しかける。

僕は、花火の方を向いたまま、彼女に目を合わせることができない。


「今日……なんか変だね。」


入野さんが、不安そうな声で呟く。


「そうかな?」


僕は、ぶっきらぼうにそう答えた。


「……ううん、なんでもない。」


入野さんは、そう言うと、静かに花火を見つめ始めた。

二人の間に、少しだけ沈黙が流れる。


視線が交わらない時間。


花火の音だけが、僕たちの間にある、かすかな溝を、静かに埋めていくようだった。

楽しい夏祭り。


でも、僕と入野さんの心は、少しだけ、すれ違っているようだった。

この、ほんの少しの違和感が、これからどうなっていくのだろうか。


僕は、不安と、少しの焦燥感を抱えながら、夜空に咲く大輪の花火を見つめていた。

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