第29話

「ユーフィア!」


 石畳に崩れ落ち、喀血する少女の下へニーナが一直線に駆けつける。ケルベロスの攻撃を正面から受けたユーフィアは、徐々に広がる血溜まりの中央で小さく身体を震わせた。その腹部からは致死量とも取れるほどの血液が流れ続けている。


「ユーフィア、しっかりして! 意識はあるッ?」

「……ぁ、わ、たし……」


 ニーナに何かを伝えようとしているのか、ユーフィアがゆっくりと口を開いた。だが上手く聞き取れず、何を言っているのかよくわからない。一瞬だけ意識を失っていたのだろう。


 そうしている間にも荒くなっていくユーフィアの呼吸と、怒り狂うケルベロスの咆哮。ニーナが背後を振り返ると、そこではリーヴィアが一人で凶獣の相手をしていた。回転式拳銃のみを右手に構え、得意の体術を駆使しながらケルベロスとほぼ互角に渡り合う。その奮闘ぶりを遠巻きに眺めるニーナの胸に燻るのは、確かな焦燥感だった。


(きっと、リーヴィアも長くは保たない……)


 狙撃から近距離格闘戦まで幅広くこなすリーヴィアでも、無傷でケルベロスの相手をすることはできない。小柄な体躯にかかる絶大な負荷は、確実にリーヴィアの体力を削っている。頼みの綱である空間転移という異能力も、今何度使っているのか、あと何度使えるのかニーナは把握できていない。緊迫した戦況の中、ニーナは近くに転がっていた背嚢の中身を漁り裁縫道具を取り出した。


(ユーフィアはすぐにでも適切な処置をしなければ、最悪命に関わる。私がやるしかない)


 戦術と勝算、勝率と戦況を脳内で整理しながら、ニーナは一度血溜まりに伏す少女へ視線を向けた。望まぬ入学を通してニーナが初めて出会った『友人』と呼べる存在。誰よりも戦場を忌避しながら、決して戦場から逃れられない心優しい少女。


『あなたはどうして戦うの?』


 試験初日、穴底で一夜を過ごしたニーナは隣で身体を休めていたユーフィアにそう聞いた。


『連邦軍に、捕虜として捕らえられている父を助けるためです』


 あの時、ユーフィアはそんなことを言っていたのだ。心のどこかで気づいてはいたが、やはりユーフィアが戦うのは自分のためではない、誰かのため。


「死なせられないわ。死なせて、たまるものですか……」


 口に出して己を鼓舞し、震える手で針の穴に糸を通す。だがこれは医療用のものですらない、ただの応急処置だ。もし傷が内臓に達していれば意味すらないかもしれない。だがやらないよりはマシだと自分に言い聞かせ、ユーフィアの皮膚に針を刺す。


「……ぅ」

「ごめん、痛いのはわかるけど我慢して」


 十針ほど縫い、糸を切って処置を終えた。開いていた傷口は閉じたものの綺麗とは言い難い出来栄えだ。その上から包帯を巻いて一度脱がせた制服を着直させる。タオルを詰めた背嚢を枕にして寝かせるとユーフィアの目が開いた。


「ユーフィア、大丈夫?」

「……はい。あの、ニーナさん」

「何?」

「私のことはいいですから、お二人の、加勢に……」


 言われて振り返ると、リーヴィアとスピカが息の合った動きでケルベロスを翻弄している。それでも、ニーナは動けなかった。否、動かなかった。


「でも、ユーフィアが心配だから」


 嘘だ。本当は、あの二人の間に入っていく勇気がないだけ。除け者にされるのが、怖いだけ。


「ニーナさん……」


 だが、すべてを見通しているようなユーフィアの手がニーナの頬に触れる。


「大丈夫ですよ」

「……っ!」


 その手を握り、ニーナは小さく頷いた。立ち上がった少女の右手には展開された《アルクトゥルスの宝剣》が握られている。


「絶対、勝ってくるわ」


 そして、走り出した。石畳を踏み締め、前へ前へと進み続ける。ニーナの接近に気が付いたケルベロスは、低い唸り声を上げると腹部から血を流しながらもニーナへと襲い掛かった。その攻撃をギリギリまで引き付けてから躱し、ニーナは中央の首を《アルクトゥルスの宝剣》で薙ぐ。鈍い音を立てて首が落ち、ニーナは全身で返り血を浴びた。


「ニーナ……」


 スピカがニーナの姿を見て思わず息を呑む。ニーナは揺らぐことのない昏い瞳で地獄の番犬を正面から見据えた。


「ユーフィアの分まで切り刻ませてもらうわよ」


 ニーナの斬撃に対応できず、ケルベロスは身を削られながら絶叫する。身体を巡るマナを足元にのみ集中させ攻撃速度を増幅ブーストしたニーナの動きは凄まじい。疑似接続回路が負荷に耐え切れず軋み、悲鳴を上げるがニーナは構わずレイピアを振るう。


 だが、ニーナの動きが一瞬止まった隙をつきケルベロスが前足を振り下ろした。が、決着を急ぎすぎ間合いを極限まで詰めていたニーナは回避が間に合わない。


(しまっ……!)


 踏み込みすぎた、と気づいた時にはすでに遅く背後に跳んで回避するが爪の先端がニーナの左目を抉った。後ろに逃げたおかげで頭蓋骨の破壊は免れたものの、激痛と共に流れ出る血液がニーナの視界を奪う。潰された左目を庇いながら右目に全神経を集中させるも、涙で滲む視界ではケルベロスの動きを捉えることなどできはしない。


 二撃目は躱しきれないと判断し、制服のポケットに忍ばせた《カノープスの雷鳴》へとニーナが手を伸ばした。次の瞬間。


「ニーナ、伏せろ!」


 待ち焦がれた男の声が、少女の耳朶を打った。

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