ー3ー
出発の朝は曇り空だった。リュックにジャージ姿が気に食わないのか、ミカは若干不服そうな顔だ。
「どうせなら、もうちょっとおしゃれしたい」軽く頬をふくらませて言う。
「だとよ? セト」見送りのユヅキがあいだに入る。
「だめだ。動きやすい格好。それ以外認めない」
「しかもこれ、きょう洗って、きょう干して、あしたも着るんだよね」
「ああ。もし洗濯乾燥機が置いてないシェルターだったら、洗うのはあした以降だ」
おれが言うと、ピキッと眉間にシワをつくったミカが肩を叩いてきた。けっこうな力だった。遠慮のない一撃。
「いって」
「セトのばか」
「おれのせいじゃない。責任者に言ってくれ」
「責任者って、ユヅキさんのお兄さん?」
「まぁ、だいたいそうだな」ユヅキが他人ごとのように答える。「ここからアトラまでの道のりだったら、洗濯乾燥機を置いてないシェルターはひとつかふたつくらいだろ?」
「……ぶぅ」ミカはやはり不機嫌で、「ほんとに、大丈夫なんだよね? だれかが使ったタオルとかシーツとか、ゴミとか、散らかってないよね?」
「泊まるタイミングによっては、前の宿泊者が使ったままってこともある。その覚悟はしておいてくれ」
「……ぶぅ」一度ふくれた頬は、なかなかしぼんでくれない。
「旅なんて、そんなもんだぜ?」ユヅキが言った。「シェルターがいやなら、定期連送便を使うしかない」
「そっちのがよっぽどやだ」
「じゃぁ、文句を言うな……」
おれが口をつくと、ミカはひどく落ちこんでしまった。
「わたし、この期におよんで気づいちゃった。このパン屋から、ほとんど外に出たことがない。お父さん、もしかしたら過保護だったかも。あれはだめ、これはだめ、ここにいなさい、余計なことをするな、って……。それは優しさだとずっと思ってたけど、ちょっと、優しさの範囲を超えていたのかも」
俗にいう、箱入り娘、みたいなものだろうか。
「ご本人の喪中にいうのもどうかと思うが……」ユヅキは前置きをして、「——大事な娘だからこそ、旅に出てほしい、外の世界を学んでほしいって気持ちはあんたんじゃねぇか?」
定期連送便を使うという条件つきだったとはいえ、アトラまでの旅を許してくれた父親だ。彼なりの葛藤があったはず。
「わたしが見た外の世界なんて、定期連送便で行ったアトラくらい。あとはずっと、このパン屋にいた。自分の足で、自分の目で、すべてを知って、体験したい」
リュックを背負いなおして、まだ看板の残るパン屋をミカは見上げた。感慨深いその目はすこしゆれている。涙をこらえるように結ばれた口から、その感情が伝わってくる。
「行ってきます。お父さん」
ショルダーストラップを握る両手に、ぐっと力を込めてミカは言った。
これからの旅をかならず成功させる——その責任を肌がひりひりするくらい感じた瞬間だった。
街周電気柵の門に来るときはいつもひとりだが、今回は見送りのユヅキをふくめての三人だ。ネシティだから、門番に免許証を見せるだけでまかり通った。
しかしミカは一般人だ。手続きにすこし時間がかかった。約三〇分のあいだ、おれはユヅキとしゃべって時間を潰したが、ミカは検問所で質問を受けた。
どこへ行くのか、なにが目的なのか、という質問からはじまり、身長や体重、前科の有無などの余計なことまで突かれて、もどってきたときは怒りをとおり越しての無表情だった。
「純政府ってなんなのマジで」と言った殺意あるちいさな声をしばらく忘れられそうにない。
どうにか外出許可をもらったおりには、見送りにきてくれたユヅキも、今生の別れみたいな顔をしていた。
そんな顔するな、と言ってはみたが、——うるせぇ、なんかうれしいやら心配やらでわけわかんねぇよ——となぜか怒っていた。
大袈裟な金網の門を出て、振り返る。金属の網のむこうで手を振るユヅキの鼻から、光る水が垂れていたのが見えた。ご近所さんであるミカの父親が亡くなったことをふくめて、さまざまな感慨が深く入り混じっているのかな、と勝手に想像した。
おれたちふたりはユヅキに手を振った。一面に見える砂とコンクリート、そして、奇形な植物とムラサキの水晶塔が彩を添える世界へと旅立った。
「あしがいたーい……」
屍のように両肩をだらりと脱力させながらミカは言った。きょうは日差しが強い。この時期にしてはめずらしい天気だ。廃墟と化したコンクリートのジャングルも、太陽の熱にやられて軽く温度を上げている。目玉焼きが作れるほどではないが。
「まだカンドゥを出てから一〇キロくらいしか歩いてない」口元の砂避けスカーフを片手で下げて、おれは言った。「一〇キロでその調子だと、この先が思いやられる」
「まだ歩き慣れてないだけだってばぁ……」ミカはリュックを背負いなおして、「なーんにもない道をまっすぐ歩くだけだと思ってた。けっこう迂回ばっかりなんだね……。もう、どっちの方角からきたかも、忘れちゃった」
「整備されたまっすぐな道は、純政府軍にからまれる。もれなく、だ」
「なんでからむのよ。アトラに行きたくて歩いてるだけでしょう?」
「——ひまなんだろ?」
答えながら、おれは植物とサビにまみれた廃車の上にひょいと乗った。すこし遠くを見るためだ。
「下手すると、なにもわるいことをしてないのに犯罪者あつかいされたりする。そこを歩いているだけでだ。やつら、架空の大義名分を作るのが得意だから」
「道を歩いてる罪?」
「そんなとこ」
遠くのほうに目をこらすと、微妙に動きのある黒い塊を見つけた。進行方向ではないが、いちおう警戒したほうがいい。
「あれ、見えるか?」おれは指差した。
「え?」ミカは車の脇から視線を投げた。「んー、なに? 青い看板?」
「ちがう。その下——すこし右」
「あの植物の近く? ——っていうか奇妙樹じゃないよね、あの木」
「街路樹っていう、人工的に植えられたやつだ」
その木陰で動く黒い塊がある。せいぜい寝息をたてているくらいの動きにしか見えないが、数百メートルは離れているこの距離から見ても、豆粒よりはっきりとした大きさがある。近づけば、見上げる背丈にはなるだろう。
「え、もう?」ミカは顔を白くした。
「紙喰いだ」
「もうすこし先で見るかと思った」
「紙は持っていないな?」
出かける前にさんざん確認はしたが、いまいちど念の為。
「なにもないよ。そこは大丈夫」
「よし……」おれは廃車の上から降りて、「すこし進行方向を変える。遠回りにはなるけど、あいつを避けて通る」
「……ねぇ」ミカは不安そうに、「紙喰いって、どこにでもいるの?」
「どこにでもいる。でも、一匹を見れば、それ以外が近くにいることはすくない。あいつらが危険であることはまちがいないけど、行動や習性は読みやすい」
とにかく紙を追いかける。
なぜか紙を喰いたがる。
紙を運ぶ人間、あるいは近くにいる人間を邪魔者として排除する。
でかい。
どんなにちいさな個体でも、成体は人よりでかい。
「なんメートルもの巨体で、たった数センチの紙を欲するのが最大の謎なんだけど」
「紙を食べたら……、どうなるの?」ミカが言った。
「その紙に書いてある言葉が紙喰いのノドから漏れてひびく……。それから全身がまっしろになって、紙に書いてあった文字が躰じゅうに流れる」
「もしラブレターを食べたら……、紙喰い自体がラブレターになっちゃうの?」
「その発想はなかったな」
なにげに言ったいまのセリフに、ミカはすこし笑った。
「なにそれ、ネットスラングみたい」
「なんだそれ……?」
「知らない? ネットスラング。わたし、現代版ネットスラング集って本持ってるの。子供のころからよく読んでた。現代版っていっても、二〇〇年前のだけど」
「そっか」
小説ではないのなら、興味はない。
「あー、いかにも興味なさそう」
頬をふくらませるのは、ミカのおはこだな、と思った。
「そうだな。別に……」おれは歩をすすめた。「ほら、早く行くぞ。ルート変更があったときは、次のシェルターを早めに探したほうがいい」
「止まるんじゃねぇぞ……」
ミカはわざと声を低くして言ったが、もとのネタがわからなかった。反応する気にもなれなかったから、おれは黙って足を進めた。そのうしろにミカの足音がつづく。
「ここから先は奇妙樹の群生地帯だ。そこを抜けたらシェルターがあるから、そこに泊まる」
「だ、大丈夫なの? その群生地帯……。聞いたことないんだけど……」
「ただのジャングルだ。いまおれたちが歩いている、砂とコンクリートがメインの荒野よりは虫が多い」
するとミカはこの世の終わりみたいな悲鳴をあげた。
「む、虫ぃ……!?」
「おい、まだ紙喰いから完全に離れたわけじゃないんだから、大声を出すな……」
「あ——」ミカは両手で口を覆って、「ごめん……」それから小声になった。「虫だらけなのはやだぁ……。ゴキブリとかいる?」
「ああ、紙喰いにならなかった、ちっちゃいやつか」
その個体は見たことがないが、飲食店のそばにはよく出る種類らしい。
「いるんじゃないか? 一匹くらい」
「やだぁ……」ミカは足を止めた。
「じゃ、帰るか? カンドゥに」
「やだ。ほかの道はないの?」
「あるにはあるが、シェルターが遠くなる」
おれが言うと、どこかあきらめたようなため息をミカはついた。
「プロにおまかせしまぁす」
「うらむなら、さっき見た紙喰いをうらめ」
「はぁ……」ミカは頭をがっくりと垂れて、「紙喰いを生んだキルラをうらむ……」
もし、おれひとりだったら、あの程度の紙喰いのためにルートを変更したりしない。今回はミカがいるから、なるべく安全なルートを随時選択していくしかない。旅慣れていない者と長距離を移動するのは、おれにとってはじめての経験だから。
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