愛を知るのに指輪はいらない
ー1ー
飛ぶ紙喰いの騒動から、三週間が過ぎた。見上げる空に快晴の日はほぼなくなった。鈍重な曇り空がずっとつづいている。雪を降らせたくて息んでいるみたいだ。
カンドゥの街は、すこしずつだが復興の過程を歩んでいた。紙喰いの襲撃で多くの店が崩れてしまったゆえんか、屋台や露天商が増えていた。建物が直るまでのあいだにも、せめての商売をしなければならないのだろう。
寒空の下で、閑古鳥を感じさせる露店の数々を横目に歩いていると、この事態を招いた犯人の顔を見たくなった。できることなら、殴ってやりたい。おれが思わずとも、店を壊されたみんながそう思っているはずだけど。
よくわからない緊張が心臓を急かすなか、おれはミカのパン屋の前に立った。入り口のドアノブに木の板が紐でぶら下がっている。これは過去、絵馬と呼ばれたもので、昔はねがいごとやなんかを書くものだったらしい。いまは、張り紙代わりに使われることが多い。
《閉店します。これまでのごひいき、ありがとうございました》
そう書かれているのを見て、なんだか寂しい気持ちが湧いてきた。本人に訊いてみないとわからないけど、文面からして、ミカはこの店を畳むつもりだろう。
まずはノックしてみる。
反応はない。
「ミカ?」
ドア越しに声を投げた。
返事はない。
妙なデジャブを感じて、緊張が一気に不安へと変わった。
「やめてくれよ……」
ドアノブに手をかけて、ゆっくりとまわす。室内から漏れる冷たい空気が頬に当たる。カラン、と来客を知らせる鐘の音が鳴る。しずかな店内へと歩を進める。
「入るぞ……。いるのか?」
なにも置かれていないパンの陳列棚。ぴたりと止まったシーリングファン。窓と窓のあいだに立っている柱時計は生きているようで、かち、こち、と独特な針音を繰り返す。あったはずのカーテンも外されている。まるで、この建物自体を引き払うかのような雰囲気だ。あまりにも、室内が死んでいる。
白い布で覆い隠されたレジが、そのままの格好で飛びまわったら体のいい幽霊だな、とばかなことまで考えてしまう。
丈長ののれんもなくなっていて、カウンター裏から、店の奥へとつづく廊下も奥まで丸見えだ。そちらに向かおうとすると、以前の光景がよぎった。遺体になった父親と、心が潰れて消えそうなミカのすがた——。
わるいことは二度も起きない、と念をうるさく鳴らし、それで頭にいっぱいにした。
「ミカ?」父親の部屋だ。大きな家具はそのまま。しかし細かいものは片づけられており、それらを適当に詰めこんだのであろう、麻の袋が部屋の中心に四つほど置かれている。棚もタンスも、なかはおそらく空っぽだ。部屋の入り口に立って、ぼんやりと数秒を費やした。ここでミカの父親の遺体を見たんだな、と、ただそれだけを考える時間だった。
すると、カラン、と店の入り口から音が。だれかきた。
「やば……」
もしかしたら客かもしれない。閉店と書かれていたはずだが……、読めないやつがいても不思議ではない。
おれは部屋の隅に身を隠して、様子をうかがった。
耳の神経を極限まで尖らせる。
視線は適当に置いて、音を聞いた。
足音はひとり。音からして、歩幅はせまい。体重は軽めだ。女……? だとすると、ミカだろうか。
いや——ヒールの音だ。コツコツ、とピンが床を突いている。ミカがヒールなんか履くだろうか。
思わず雷駆刀に手を置いた。前に見た純政府のカナデというやつだったら、めんどうだ。いくらミカの知り合いとはいえ、不法侵入といわれたら逃れる術が弱い。
足音が近づいてくる。
——女は、おれがいる部屋の近くで止まった。
緊張。
動悸が激しくなって、耳の裏まで心臓が登ってきたみたいだ。
「……いったぁ……。やっぱ、ヒールなんか履くもんじゃない……」
ミカの声がしたとたん、全身の骨が溶けたんじゃないかってくらい、こっちは気が抜けた。
「ミカ」
「え!? なに!? 強盗!?」
「おれだ」
部屋から出ると、両手にもった黒いハイヒールを武器のように構えて、おどろきの表情を固めたミカがいた。
「セト!?」構えが解かれた。
「……黙って入ってわるかった」
「い、いや、いいけど、ど、どうしたの!?」
「どうした、って……。約束……」
「あ、ええ、ああ」ミカは目を忙しなく泳がせて、「そ、そうだった、約束……。うん、そうだね、そうだった……」
もうすこし喜んでくれるかと思った。なんだか、霧がかかったような、すっきりとしない反応だ。
「……どこか、行ってきたのか?」
黄色のドレスを着ていることが、気になった。胸元が開いていて、ミニスカートの丈のおしゃれなものだ。まるで、デートかパーティにでも行ってきたかのような。
「う、うん……。散歩」
「散歩……?」
「そ、そう……。散歩」
「……にしては、歩きにくそうだけど」
「あ、うん……。ほんとに散歩なんだ」
そう言って、ミカは両手をだらりと下げた。紐だけを握られたハイヒールがぶらりと垂れ下がって、やる気のないつま先が床を舐めそうだ。
「このドレスね。お母さんのなんだ。あ、若いときのね。いまのわたしくらいのときに買ったって、言ってたのを思い出してさ。もしかしたら着れるかなぁ、と思ったら、ちゃんと着れちゃって……。ほんとうはね、この家のものを片づけ終わったところなんだけど。ただ、このドレスだけ、どうしてもゴミ袋に入れられなくて……」
話す様子からして、ほんとうに散歩に行っただけのようだ。
「捨てる前に、着てみようと思ったのか?」
「うん。あ、捨てないでおこうかな、って」
「いいんじゃないか? その……、よくわかんないけど、ミカが着たいなら、着たらいい」
「あ、いや……。いっかい、お母さんに渡してみようかなって」
「——いいんじゃないか?」
「うん……」すこし考えてから、ミカは顔をはっとさせて、「てか、セト、勝手に入ったらだめじゃん! ……ちょっとそこまでだから鍵をしなかったわたしもわたしだけど……」
すこし恥ずかしそうな顔で視線を横に流したが、それでもミカは怒るのをやめない。
「次の定期連送便まで二週間あるし! 来るの、早くない?」
まいった、気まずいところばかり突かれる。
「ほ、ほら……、道中なにがあるかわからないだろ? 早めにカンドゥにいようと思ってさ……。迷惑だったよな、とりあえず宿を探すから、また二週間後に来るよ……」
おれが言うと、ミカはうつむいた。一度は吹き出すのを押し殺したが、ついに笑いだした。しまいにはこっちの肩をハイヒールでぱたぱたと殴りながらの大爆笑だ。
「もう、本気にしないで」涙目になりながら、ミカは言った。
「予定を狂わせて、迷惑はかけられないだろ……」
「ごめん、ちょっとからかいたくなったの。なんか、かわいいんだもん。約束の日より二週間も早く来るから。よっぽど楽しみだったわんちゃんみたい」
「わ、わるかったな……」
しかし実際、ネシティ連会からカンドゥまでの道中になにもない保証など、いっさいないわけで。あくまでも、予定を守るために早くきたのは曲げられない事実だ。
「でも、ちょうどよかった」ミカは晴れた顔をした。「定期連送便、使わないことにしたの。それを、セトに伝えたかった。なるべく早めに」
「……本気か?」
「うん。本気。歩いてアトラに行く。定期連送便なんか乗らない。人だらけだし、汗くさいし、狭いし、座れないし。そんなのよりも日数かけて歩きたい。ゆっくり。ふたりで」
「危険だ」
「守ってくれるでしょ?」
「……護衛はおれの仕事じゃない」
「紙を持たなければ、紙喰いには襲われない。でしょ?」
「確率が低くなるだけだ。見境のない個体もいる」
「でも、守ってくれるでしょ?」
「あのな……」
前にもこんな問答をした。そのときもミカのいじっぱりは強固なものだった。以前は父親からの援護射撃があったが、今回はタイマンだ。勝てるだろうか。
「おねがい」ミカは真剣な顔で、「生きてるって実感したいの。街の外を見てみたい。透明な空気を吸いたい……」
状況はちがうけど、おなじようなことを言っていたのはヒナだった。彼女も外を歩くことで生を実感した、と語っていた。
その経験を、ミカから奪っていいものだろうか。
もし、おれが守ることで、ミカのねがいが叶えられるなら——
「死んでも後悔するなよ?」
「大丈夫。セトがいるから、わたしは死なない」
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