ー7ー


 ちっ、と舌を打ったのは師匠だ。


「じゅういち」堂々島さんが低い声で言う。「行き先はふたつだぁ、わかるだろう?」

「ああ……。くそ、どうする」

「だが、行き先はひとつだ。ひとつでいい。これを見ろ」


 堂々島さんが見せる映像が切り替わった。

 ——見慣れたテレビだ。

 うちのリビングのテレビが映っている。

 バラエティ番組が、砂嵐に変わる。

 砂嵐は真っ青な画面になり。

 次に映ったのは、井戸だ。

 青白い右手が、ぬぅ、と井桁を掴む。

 今度は左手が、ぬぅ。


 黒いストレートの髪、白いワンピースの女が井戸から這い上がってくる。獲物を見据えたハイエナのように、四肢をひた、ひた、と地面につける。全身で地を舐めるような低い姿勢が見えて——そこからは速かった。


 ばたばたと四足歩行での高速移動をしたと思ったら、あっというまにテレビから飛び出し、母に飛びかかった。椅子が転がり、テーブルが倒れて、ラックの食器が落ちた。青い炎からは音が聞こえないが、相当な喧騒であると想像できる。


 貞子みたいな幽霊は、母にプロレスか柔道かの技を決めてしまった。なんの字固めなのかは不明。貞子の関節はまるで虫だ。肩が明らかに外れており、腕が直角に折れている。白いワンピースがはだけて、ガニ股の美脚が見える。


 母はまるで身動きがとれない。仰向けでお腹を持ち上げるヨガのポーズみたいな格好で縛られている。それはそれで痛そうだが、頭を叩きつづけるよりは、まちがいなく安全だろう。貞子は母を助けてくれた。


 母が大人しくなると、貞子は母の足をひっぱりながら、テレビにもどろうとする。ゆっくり、確実に、貞子は母をテレビのなかへと引きずりこんでいく。


 呆気にとられていると、ぶん、と近くで音が鳴った。いままで気づかなかったが、この部屋には古いブラウン管テレビがあった。それも大きめだ。


 まさかと思った。

 貞子のお尻、足が見えて、おどろくまもなく母の足が出てきた。

 母の全身と再会するまで一分もかからなかった。


「お、おかぁさん!?」わたしは駆けよった。「大丈夫なの? ねぇ、起きてよ!」

「待て!」堂々島さんが吠えた。「そぼろ、気持ちはわかるが離れていろ、安全のためだ」


 わたしは母から二、三歩距離をとった。

 青白くて、呼吸がとても細い。

 額の一部が赤く腫れていて、浅い切り傷がからわずかな血が。


「おかあさん、ねぇ、起きてよ……」


 声をかけるも反応はない。


「ミラ、憑いていた虫はどうなった」


 堂々島さんが問うと、貞子の幽霊は首を縦に振った。


「来るかぁ、一〇年殺人の容疑者がよぉ」

「霊道か……」師匠が言う。

「おうよ、おうよぉ。どうしたって足跡がつくよなぁ、仕方ねぇ、仕方ねぇ」


 ミラはまだ、なにかを言いたそうにしている。


「どうした?」

「もうひとり……。だれか……。すごく強い、だれか……」

「そいつもこっちに来るってかぁ、めんどうくせぇなぁ」

「だれだ?」師匠はミラを見た。

「そこまではわからねぇだろう?」


 堂々島さんに対しミラは首を横に振る。


「そぼろの母は、ひとまず解放されたか……」


 師匠がほのかな安堵感を醸した。

 これで母が殺されることはなくなったらしい。

 ただ、早く目を覚ましてくれないと実感が湧かない。

 頭なんて、軽くぶったって危ないのに……。

 ——外から慌ただしい足音がする。


「お、おい!」上田さんだ。「そ、そぼろちゃんのお母さんが行方不明だって! 室内に争った形跡があるのに、侵入された形跡も、外出した形跡もないって……! ど、どうなってんだ! じゅういち! 幽霊にさらわれちまったのか!?」


 ひとり、ねずみ花火のようにさわぎたてる上田さんが室内に倒れている母を見つけるまで、時間はかからなかった。


「は、はああああああああああああ!?」


 ごきっ。


「なんだ、いまの音?」師匠が言った。「上田の頭から聞こえた。脳みそが折れたんじゃないのか?」


 折れる脳みそって、どんな脳みそだよ。プラスチック製?


「あ、あ……」上田さんは大口を開いたまま固まっている。

「おう、おう、あごが外れたんじゃぁねぇか?」堂々島さんが言う。


 それ、正解……、と言わんばかりに上田さんは片手でグッドサインを作った。



 追い打つようにブラウン管テレビにひびが入った。落ちつく暇さえない。部屋のろうそくは勢いを増して、強い光を放つ。それがなにを予兆しているのか。いやな予感しかしない。


「先生。客人がもうすぐおいでです」嘉次郎さんが言った。

「おう、おうよ」堂々島さんは深呼吸をした。「じゅういち。ミラは力を使い果たした。井戸へもどって、しばらくは腐った水のように寝るだろう。——天狗の風を信じられるか?」

「信じたことはない。だがこの際、風にさらわれるしかないだろう」師匠は右手の包帯をたしかめる。よく見た仕草だ。「ここは任せられるのか?」

「おう、おうよぉ。たまには運動してぇもんさぁ、書いてばかりだと肩がこるからなぁ」


 だるそうな空気を全身から放ちながら、堂々島さんは肩をほぐす。


「ここに来るもうひとりを確認してから行ったらどうだぁ?」

「いや……」師匠は真剣に、「時間が惜しい。先手を打ちたい」

「ヘビのお告げかい? それとも一十の血がさわぐのかい?」


 ふっ、と師匠は鼻で笑ってみせた。


「おれの直感だ。ヘビも、血筋も関係ない」

「なら、いちばん信用できるなぁ。他力や家名に流されるやつほど、ろくなもんじゃねぇ、ああ、ちげぇねぇ」


 堂々島さんは右手に青い炎を猛らせ、ぐるりと舞いを踊った。歌舞伎でも見てるような、派手で妖艶な光景だ。


「嘉次郎、天狗だぁ! びゅうっと一発! 神隠しといこう、ああ、いこうやぁ! はっはぁ!」


 ずいぶんとテンションが上がったミリオンセラー作家。ここにあづきちゃんがいたらどう思うだろう。優雅な舞いを動画にして、これが堂々島さんだよ、といって観せたとしても、おそらく信じないだろう。


「では、一十冬夜さま。お外でお待ちください。神隠し印の爆速タクシーを手配いたしますので……。ふぉ、ふぉ、ふぉ」


 嘉次郎さんは一礼をして、寺の外へと向かう。


「そぼろ、ついてこい」と、師匠。

「え、あ、はい……」

「上田。ふたりでトイレに行ってくる」

「あ? ふはりへ?」


 あ? ふたりで? と言ったのであろう上田さんには、嘉次郎さんの声などは一切聞こえていないし、堂々島さんの炎も見えていない。


「マリはここにいたほうがいい。堂々島がいれば安全だ。それに、霊道を辿ってやってくるが、おまえと関係がある可能性が高い」

「……わかったよ。待ってる」マリちゃんが言った。

「お、おへは?」


 あごに痛みが残る上田さんが言う。


「あんたは、マリ——誠子さんを保護する義務があるだろう。そぼろの母親もだ。寺の外に運んで、ヘリコプターのなかにでも寝かせてやってくれ。貞子にシメられたから、しばらくは起きない」

「は、はらほ?」


 さ、貞子? と言ったみたい。


「なんでもいいから。ふたりの安全。それがあんたの仕事」


 師匠は言葉を押しつけるように言った。


「は、はらっは……」わ、わかった、と言ったみたい。


 寺の外に出たとき、めまいを覚えた。

 流石に疲れを感じる。

 とんでもなく濃厚で密度の高い一日だ。

 そして終わる気配がない。

 ほんとうに陽が昇るのだろうか、と思うくらい。

 視線の先でヘリのパイロットが手を振っている。

 あくびをしていたから、眠いのだろう。

 こちらも手を振ってみる。


「これから闇口の本家に行く。あれには乗らない」師匠が言った。

「……なぜ、闇口に?」

「おまえの母親を殺そうとしたその共犯者が、まちがいなく闇口の本家にいる。共犯……、もしかしたら首謀者かもしれないな」


 おばあちゃんの家に行く……。

 普通なら、うきうきする場面なのだろう。

 まさかカチコミ同然で突撃することになるとは。


「貞子が通った霊道を辿って、マキがくる。別のだれかもだ」

「それは……、ひいおじいちゃん?」

「わからない。わからないからこそ、だれが来てもいいようにする。敵の本拠地にこっちから出向く。ここのことは堂々島に任せられる。あいつなら安心できる」


 師匠は他人を信じない人だと思っている。それでも堂々島さんへの信頼は厚い。よくよく考えると、これはすごい。堂々島さんがである証拠だろう。いろんな意味で。


「それに、さっさと終わらせて早く寝たい。残業もいいとこだ」


 満月に向かって、師匠は伸びをした。


「行って、どうするんです?」

「そんなの決まっている。ぶん殴るんだよ」


 師匠が言うと、真上から風が吹いた。髪の毛が押しつぶされる感覚がする。止まっているヘリコプターのプロペラが回るほどの風だった。パイロットもびっくりしている。


「わしを呼ぶのは礼か。それとも無礼か」


 脳の内側に響くような声だ。若い男の声。


「天狗! 堂々島のよしみだ! 力を貸してほしい!」


 師匠は夜空に叫んだ。するとカラスの羽が一本、ひらり、ひらり、舞い降ってきた、まるで月から落ちてきたみたいに。

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