ー4ー
「この世でいちばん恐ろしいものは人間だ。やつの気持ちは痛いほどわかる」
師匠の顔はどこか安心しているように見えた。この山の空気が合っているのだろうか。たしかに、一十探偵事務所がある竹林で感じた空気と似ている気がする。
視線の先にひとりの老人が見えた。ボロボロの寺を背にして、道の中央に立っている。あれがミリオンセラー作家本人なのだろうか。思ったよりも高齢だった。もっと若い印象を勝手に抱いていた。
「あれが見えるか」師匠が言った。
「あのご老人ですか?」
「そうだ。やつは嘉次郎。堂々島ではない」
「え、ちがうんですか?」
「堂々島だと思ったか?」
「はい……」
「上田を見ろ」
先頭をのしのしとガニ股で歩いている上田さんは、まるで道の先にだれもいないかのように進んでいる。嘉次郎の表情がわかるくらいまで近づいているはずだが、気づく気配がない。つまりあの老人も幽霊ということ。
「いやぁ、しっかし。だれもいねぇなぁ」
いつもの調子で上田さんが言った。なるほど、いまのひとことで確定だ。まだ堂々島本人は現れていない。
「お待ちしておりました。ご一行さま」
すこし遠くにいた嘉次郎は、一瞬で目の前にワープしてきた。幽霊はこれをするからこわい。こわいというか、びっくりする。変におどろいてしまった。
「どうした? そぼろちゃん、なんかに刺されたか?」
「ちがう」師匠が答えた。「堂々島の執事がすぐそこにいるんだ」
「おう? ああ、嘉次郎ってやつか! 子泣き爺みたいな見た目をしてるんだろう? いいなぁおれも一回会ってみてぇなぁ! おうい、嘉次郎さん、いるんだろう?」
手を振る上田さんの視線は、嘉次郎の頭上をまっすぐキレイに通過している。
「上田。もうすこし視線を落とせ」師匠が言う。
「お、こうか?」
上田さんはこくりと頭を下げた。下げすぎだ。それだと自分のつま先しか見えていない。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ、上田さま。わたくしめはそこまでちいさくは、ございません。まるでチぃワワを探しておられるみたいですなぁ、ふぉ、ふぉ、ふぉ」
いままで聞いた霊の声のなかで、いちばんに人間らしい声だと思った。嘉次郎さんの声には暖かさがある。まるで死人の声とは思えないほどに。
「上田、遊びはそこまでだ。あとはこちらに任せろ。静かにしてくれ」
師匠に言われると、上田さんは怒られた子犬みたいにしゅん……、となった。
「わかったぜ……」
それでもメモ帳を胸ポケットから取りだすあたり、仕事ができる刑事感がある。
「ほう、そちらの御仁は、少々クセがありますな。ふたつの魂が同居していらっしゃる」
嘉次郎さんはマリちゃんを見て言った。
「こいつが今回の悩みの種だ」師匠が乾いた口調で、「早く、なんでもお見通しの先生に会わせてやってくれ。こいつの双子の姉が、あすの陽が昇るころに人殺しをする予定だ。それを止めたい」
「ええ、存じておりますとも。人間の一〇年。霊にとっては一〇月のようなものでございます。前回の殺人も、つい最近に起きたことのように思います。幽霊の界隈では有名でございますよ。一〇年に一度、中年の女性を殺しては錫を鳴らして、えーやこら」
——錫を鳴らして、えーやこら——
この言葉が師匠の耳に飛びこんだ瞬間だった。どう叩いても切っても折れることのなかった一本の石柱が折れたかのように、師匠の周囲が、その空気が一変して、揺れた。全身の毛が逆立つような感覚。鳥肌が全身を覆うような感覚が、こちらにまで伝わってきた。
「そうか……。どこぞのだれかが、要らぬことをいつまでも続けていたか」
歯でクルミを噛むように、師匠の言葉はきつい。
「どっちだ」
「ええ。それは、先生からお聞きになってくださいまし」
「おいなんだじゅういち。どっちって、目の前に寺があるじゃねぇか。そこに堂々島さんがいるに決まっているだろう?」
上田さんが言うも、師匠の顔はこわばっている。ゆるむ気配がまったくない。
「道をたずねたわけじゃない。闇口か、一十か。そのどっちかと訊いたんだ」
捨てるように言って、師匠はこちらに背中を突きつける。そして、寺に入るときの態度ときたらひどかった。靴を脱ぎもせず、ばん、と引き戸を乱暴に開いてみせた。その衝撃でドアが外れて倒れた。ほこりなのか砂なのかよくわからない粉塵が舞ってきて、上田さんは盛大にくしゃみをした。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。どうやら火をつけてしまったようですな」
急に右側から声がしたと思ったら、嘉次郎さんがとなりにいた。お得意の瞬間移動だ。
「わ、やめてくださいよ、おどかすの……」
「ふぉ、ふぉ、足音がしませんで、これは失礼。このうっそうとした山奥です。若い娘などめったに訪れるものではありません。何年か前に、物好きな外国人が来たくらいです」
「外国人が来るなんて、すごいじゃないですか……」
「その日に死にましたがね」
嘉次郎さんの言葉は、おそらく冗談ではない。
つん、と鼻の奥が痛くなった。
「なんで?」
「ええ、死にたかったのです」
「は、はぁ……」理解がついていかない。
「幽霊になりたい人間もいる。そういうことです。ああ、元ネタは、あなたもご存知だと思いますよ」
そう言って、嘉次郎さんが指差した先に、古い井戸があった。
どこかで見たような光景だ。
——耳鳴りがする。
音が止まって、視界の中央に井戸が。
そこからなにかがぬるりと顔をだしそうな、そんな感覚がする。
静止画のような、古い動画のような景色。
「おうい、じゅういちを追っかけようぜ」
上田さんの声で現実にもどされた。
「あ、いま行きます」わたしはうしろを振り返った。「マリちゃん、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ、でもね……」
マリちゃんは胸に手を当てる。呼吸が浅そうだ。
「苦しい……。むじゃむじゃして胸が焼けるような感じ……。この感じが来たら、あの子、もうすぐ、だれかを殺すん。そうしたら、ずっと抱えていた悩みごとがすっ、と消えたように、うちまで楽になるの。だから、あの子が人を殺したんだってわかる」
「双子ですかな?」嘉次郎さんが言った。
「そうだよ。うちは姉。人殺しの幽霊が妹」
「そうですか。妹に悩まされるとは、文字どおり死にきれませんな」
「ふふ……」マリちゃんはくすりと笑った。「早く
「大丈夫でしょう。錫と聞いただけで、一十さんの目つきが変わった。一〇年おきの殺人の謎は紐解かれ、悩みもすぐに解決します。安らかに眠れるときが、すぐにでも来るでしょう。ただ——」
瞬間、嘉次郎さんの声から暖かさが消えた。
「一〇年に一度とはいえ、人殺しに時効はありません。積み重なった業を焼き祓うには、地獄に堕ちるしかありません」
そして、ひょうきんな口調はもどり——
「一方で、他人に憑依して遊んでいた程度の罪しかないあなたは……、地獄には堕ちないでしょうな。天国にある、お仕置き部屋に連れて行かれる程度でしょう。よかったですね。ふぉ、ふぉ、ふぉ」
事件が解決して、双子が成仏したとしても別々の道に流されることになる、ということか。けっきょく離ればなれだ。
「そうだね。うん……」マリちゃんは意を決した顔で、「覚悟はしているよ。大丈夫。妹とは、さよなら、するから」
わたしはいまライオンを見ている。
赤いたてがみに、はっきりとした目鼻立ちの顔面。ろうそくの明かりだけではよく見えないが、その瞳は薄い灰色だ。外国人なのだろうか。
黄金色の着流しから露出する手足は細いが、程よく筋肉質だ。脱いだらすごい体をしているだろう、と女の本能が訴えてくるから困る。年齢は二〇代後半から、三〇代前半に見える。
「おう、おう、おう。こいつぁずいぶんなご登場じゃねぇか。外れねぇように、いいこいいこぉ、かわいがっていた寺の戸がよぉ。じゅういちのせいでおしゃんだなぁ、ぶっ倒れてやがる」
ライオンが言った。片肘をついて、手のひらを枕にして優雅に寝転がっている。それにしても全身から溢れる貫禄がすごい。
「じゅういちと呼ぶな。びっくりやろう」
「びっくりやろう!?」ライオンは大口を開いて笑った。「なるほど、なるほどなぁ! 名が霹靂だから、びっくりってか! そいつぁいい、今度の作品に使わせてもらおう。名探偵びっくりの死々快生、なんていい題だなぁ。そうしよう、そうしよう、かっはっはぁ」
ああ、やっぱりこの男が堂々島霹靂——ミリオンセラー作家なんだ。有名人と会っているという実感がまるでない。こうもないものか。
「あ、あの……、〈天は魅知る〉を書かれたんですよね?」
わたしの問いに対して、堂々島さんは首をかしげた。
「なんだぁ、それは?」
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